私が今、捨てられなくて困っているのは、母から貰った服だ。

昔から兄のおさがりや、母が若かった頃に着ていた服を貰うことが多かった。そのことに不思議と不満はなく、というのも着る人がいないからと、まだ着られる服が捨てられてしまうことのほうが悲しかったし、少し時代が前の服を今の服と組み合わせて遊ぶのも単純に面白かったからだ。

それに、多分、私はいい子だった。
新しい服そろそろ買わない?と親に声をかけられるまでは、服がほしいと自分から言うことは殆どなかった。言っても困らせるだけなのは分かっていたし、今あるもので遊んで楽しむ力がそこそこある子供だった故に、本当に、おさがりを着ることに不満はなかったし、ぼろぼろにならない限り捨てることもなかった。

なかった、けれど。

服を見て笑いながら「みすぼらしい」と言う母。信じられなかった

先日、離れて暮らす母が私の家を訪ね、自分があげた服が部屋にかかっているのを見るなり、笑いながらこう言った。
「なんだかみすぼらしいわね、可哀想になってきた」と。

信じられなかった。信じたくなかった。そのたった一言で、今までの全てを否定されたような気がした。
今でもたまにおさがりをくれるのは、ただ服がもったいないからだと思っていたのに。自分が若い頃着ていたお気に入りの服を着てくれるのは嬉しいと言っていた言葉は、嘘だったのだろうかと。
じゃあ、なにか。それは「みすぼらしい」と思いながら、私に子供の頃からおさがりを着せていたということなのか……。

私はおさがりを着ることは全く不幸なことだと思っていなかったのに、たった一言で、全てが台無しになり、今まで親を守るようにお下がりを着ても笑っていたことが急に恥ずかしく、悔しくなってきた。
私がおさがりを気に入っているから今も着ているのではなく、服を買う経済力がないから仕方なく着ているのだと想像されたことも、虚しく腹立たしい。

どれも大事な服で、私を想って譲ってくれたと信じていたのに

母が帰った後、私はおさがりの服を全て袋につめた。20代にもなって、自分の持つ服の7割近くが母のおさがりだったことに驚き、余計虚しくなった。
普通にどれも気に入っていたし、母が私を想って大事な服を譲ってくれたのだと信じていたから、どれも大事にしていたのに。毎週着るような服も混じっていた。涙が出た。
それでも、もう、今は着られない。これを着れば、哀れまれる弱い人間になるということだから。子供の頃も、大人になって独り立ちした今でさえ、私は母に哀れまれている。
目的があって転職をして、平均より給料の低い仕事に就いた。それについて「夢に向かって頑張って少しずつ近づいていて、偉いね」なんて理解があるようなことを言いつつ、気が緩んでいる時は「みすぼらしい」という言葉をふとこぼす。どっちが本心かなんて、簡単に想像がつく。

ぱんぱんになるまで袋に服を詰めて、そこからどうするかは考えていなかった。もう袖を通すことはないとはいえ、服たち自体に罪はないし、気に入っているものも多かったからすぐ捨てることも出来ないでいる。とはいえ売るという選択肢も、親のお金で買ったものを勝手に売ってお金を貰うのも悪いことをしている気がしてどうしても出来なかった。

あの服を、もう一度誰かが着る日が来るのだろうか

今も、どうしたものか、そのぎゅうぎゅう詰めにされた服は部屋の隅に置かれている。
着るのはプライドが許さないし、「みすぼらしい」と言われた日のことを絶対に思い出してしまう。
どんな日がくれば、私がどんなことを乗り越えられれば、あの服の山がもう一度誰かに着られる日が来るのだろう。
服を捨てれば強い人間の証明になるのか。それとも気にせずおさがりを着続けることが、負けないことになるのか。気にし続けないことを、私が出来るのか……。
今はまだ、何が正解か分からない。