私の幼い頃を表す言葉として適切なのは、「真面目で風変わり」だろう。
同世代の子たちの間で流行っているものに興味をあまり示さず、両親にダメだと言われたことは片っ端からやるタイプの子どもだった。
それでいて図書館の本を読みつくすほどの本の虫で、おままごとではしばしば「太古の森」や「魔法の城」といった設定を持ち出していた。
8歳のクリスマスに願ったのは「5㎝の身長にしてほしい」だったし、11歳には魔法魔術学校から手紙が来ると本気で信じていた(9月に転校したらどうなるのかと、本気で両親に問いかけていた)。

努力家、完璧主義の母からすれば、私は「あり得ないほど根性なし」

とにかく刺激を得るために勉強し、興味の赴くままにひたすら自らの世界を広げようとしていた。それでいて物心つく頃には、自分の考えていることの大半は人に理解されにくいということにも気が付いており、自分の行動原理や思考について伝えることを怠っていたため、「何のために今私がこの行動をしているのか」ということが両親にはわからなかったことと思う。本当に育てにくい子どもだっただろうなと、今思い返して申し訳のない気持ちがわいてくる。
型にはめようとすれば反発し、かといってうまく私自身の中にある感情や熱意を伝えることができなかったので、両親、とりわけ母とはよく衝突していた。
母は典型的な良妻で努力家、一度始めたことは最後までしっかりとやりきる完璧主義だった。私は反対に、ある程度理解したら途中で放り投げ、次に興味を引くことに着手するような性格なので、母からすれば「あり得ないほど根性なし」だった。
変わり者とはいえ、自分の強い味方であった母を裏切ることは、何よりも怖いことだった。反抗的なくせに期待には徹底的に応えたいと思っていたのである。
大人として社会で過ごすうちに、私の性格を強みとして生かせることに気が付いたが、大学生の時分までは、母にとっての裏切り者で、社会の役に立たないクズだという思いが消えなかった。

母が望む第一志望校に受験失敗。母にとって娘の生涯の罪となった

私がそう思うようになったきっかけは、大学受験に失敗したことだった。
母はわからないなりに私の将来について、「娘にはチャンスがあるのだから、しっかりとした強固な学歴をつけてあげたい」と考えており、ありとあらゆる高学歴と呼ばれる大学のオープンキャンパスに赴いた。娘の私の考えていることがわからなかったから、わからない余白の部分を「賢い」と勘違いしたのだろう。
私は母ほど熱狂的に大学を選ぶことができなかった。自分が将来何をやりたいのか、どういう人間になりたいのかということがわからないまま受験知識を詰め込まれ、すでに疲れ切ってしまっていた。しかし母を失望させることが何よりも怖かったため、プレッシャーと葛藤が心の内で重荷となっていた。
結果、私は母が望んだ第一志望校に行くことが叶わなかった。
母は一年浪人して、次の年で受かればいいと言ってくれていたが、私は一刻も早くこの家を出たかった。奨学金を借りてでも、受かった私立の大学に行きたいと申し出たのである。
母は私を許さなかった。
「それは逃げだ」「根性がない」「なぜ最後まで成し遂げようとしないのか」と、あらゆる否定の言葉が母から飛び出た。それについては母の気持ちや思いは世の中の常識と照らし合わせても正しいし、当時の私も「言われても仕方がない」と思っていた。いつか社会人となり、何かしら結果を出したら、きっと許してくれると信じていたし、自分にはいくらでもその可能性があると考えていたからだ。その可能性を最大まで広げるには大学に行くしかないと考えていたし、そのチャンスを逃したくはなかった。
計算高い私の内面を、母は見抜いたのだろう。大学初日の前夜、母から来た激励のメッセージには、「今後どれだけ結果を出そうとも、あなたを許さないし認めない」と書かれていた。
自分がこれまでさせてもらった経験を鑑みると、母の怒りはもっともだったと思う。しかし、今後母に認めてもらえる可能性を失ったのだとわかった時、私は母に心を開けなくなった。

実家へ帰る切符を得るために、私はもう少し踏ん張らなくてはいけない

社会人として数年過ごして、私の性格や経験を好意的に受け入れてくれる場所があることを知った。そして、仕事を通じて成果を出すことができることもわかった。自分がどういう人間で、将来何をして過ごしていたいのか、おぼろげながらも形を見ることができるようになってきた。
もうすぐ30歳になる。すでに10年近く実家には帰っていない。
冠婚葬祭で会うことはあっても、家族水入らずの時を過ごすことはなかった。
自分の幸せを考えた時、やはり私は母に認めてもらいたいという気持ちがある。
「あの時あなたを裏切ってごめんなさい。それでもあなたが母親だったから、私はこれだけの成果を出せました」と、目を見て伝えられるようになりたい。そうすることで、私も私自身を受け止め、認めてあげたいのだ。

私が一番欲しいものは、実家へ帰るための切符だ。それを得るために、私はもう少し踏ん張らなくてはいけない。ご近所さんに自慢して回れるような、「あの問題児だった娘でも、こんなに結果を出せました」と母が胸を張れるような結果を、私の人生から絞り出さなくてはいけない。
今、友人たちとある会社を立ち上げようとしている。一つ一つの道筋を自分たちで考え、課題を洗い出しつぶしていく工程は、苦しいものの楽しさが勝る。これが一つ形になった時、私は初めて堂々と実家に帰ることができると思っている。
十年来の欲しいものリストを早く消化させたい気持ちは、きっと限定商品の発売日を待つ気持ちと同じだ。真面目な風変わりさを思う存分発揮しながら、自分らしくいられた結果を、母が受け入れてくれたら嬉しいなと思っている。