28歳の今、出産はおめでたくて、素晴らしいことだと、やっぱりそう感じてしまっている。それでも、あと数年したらそれをする側になるかもしれないというここ最近、「出産」「子どもを持つこと」って一体どういうことなんだろう、と改めて深く考え込んでしまった。
これからここに書こうとしているのは、私が反出生主義(人はそもそも生まれない方が良いという思想)というものに出会い、将来子どもを持つかどうか苦悩し、考えたことの記録です。

結論から言うと、私はいつか自分の子どもを持つ努力をする方向で考えています。
こんなにもデリケートな話題を、なぜ語ろうとしているのかというと、どこかに私と同じように悩んでいる方がひょっとしたらいるのではないか、と思ったから。でも一番の理由は、自分なりに今の考えを言葉にしておきたいと思ったからです。
私も注意して語っていこうと思ってはいますが、読んでいて不快に感じたら、すぐに回れ右して下さいね。

出産はおめでたい。でも赤ちゃんにとっては嬉しいことだろうか

さて、将来子どもを産むかどうかという、私の果てしない思考の迷路は、小説の『夏物語』(著・川上未映子)と出会ったことで始まりました。
この小説の主人公・夏目夏子は、いつか自分の子どもを産みたいと思っている30代の女性。夏子は、反出生主義的な思想をもつ善百合子という女性に出会います。彼女は幼少期に育ての父から性的虐待を受け、生き抜く経験をしていました。ここでは物語の筋は置いておいて、私が衝撃を受けた百合子の台詞を紹介させて下さい。

『もしあなたが子どもを生んでね、その子どもが、生まれてきたことを心の底から後悔したとしたら、あなたはいったいどうするつもりなの』
『みんな、賭けをしてるようにみえる(略)自分が登場させた子どもも自分とおなじかそれ以上には恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったって思える人間になるだろうってことに、賭けているようにみえる。』

なかなかドキッとする言葉ですよね……。
私はここで、今まで考えもしなかったこと、でも確かにずっと、この世界では当たり前にあった疑問に気づき、クラクラしました。

私にとって出産はおめでたいこと。でも、赤ちゃん当人にとっては?という疑問。

特別な例を除いて、多くの人は自分で望んで出産をします。それは、他でもない自分で決めたこと、したことだから、もし戸惑っても自分の責任として引き受けることができます。
でも、当の赤ちゃん本人が本当に生まれてくることを望んでいたかは、確かめようがないのです。「赤ちゃんはお母さんを選んで生まれてくる」という説もありますが、それが本当のことなのか、幻想なのかは、私にはまだ計り知れません(私個人としては、本当であってほしいと思っていますが……)。

出産はおめでたさ、素晴らしさの裏に、「ある程度の苦しみや痛み、病気や理不尽さ(もしくはもっと酷いこと)がある世界に、自分たちの望みだけで、異なる個人を強制参加させている」という側面もあるのだと、私は初めて気がつき、絶望しました。
もちろん、たいていの人が赤ちゃんが幸せになってくれることに賭け、そのために力を尽くそうとしているでしょう。ただ、賭けに負けるとは考えてもみない人が多いのではないか。そしてもし負けた時、生まれた側は、賭けを自分から始めたわけではないのにも関わらず、その負を負わなければならない。
この考えは、私を真っ暗なところに落とし、何も見えなくさせてしまいました。

私自身は、仲が良い家族の中で、おおむね幸せに育ったと思います。消えてしまいたいと思ったこともありますが、生きていて楽しいと思えたことも、ちゃんとたくさんあります。
でも、私の子どもも同じような感想を人生について思う保証なんて、どこにもない。
それに万が一、生まれてすぐ命が危うい、痛みばかりを感じる身体で生まれてしまったら。そうなったら、この世界に生まれ落ちてしまったということは、赤ちゃん本人にとって、どういうことになってしまうの?
幼い頃は幸せなイメージであった出産が、ひどく一方的な、恐ろしいものに思えてきて、世界が一変しました。

子どもと楽しく暮らしてみたい。望む生き方ができるよう応援したい

私は、大好きで大切な彼氏に、この暗い物思いを話してみました。彼は、いつか私との子どもを育てたいと思ってくれています。話すと、やっぱり少し揉めて、悲しい表情にもさせてしまいました。そして、彼が聞いたのです。
「その反出生主義抜きで、そもそも君が子どもを望んでいないんでしょう?」と。

「いや、子ども欲しい!」
反射的に、そう答えていました。その答えに自分でびっくり。「あ、そうなの?!」と彼氏もびっくり。

その時、自覚しました。
色々考えて分からなくなっていたけれど、全ての物思いを取っ払うと、私は子どもを望んでいるのだ、と。
正しいのか間違っているのかは置いておいて、彼と、彼との子どもと、楽しく暮らしてみたい。そう感じているということ。目の前の暗闇が、サーッと突然晴れていくような、不思議な感覚になりました。

私は、自分の望みに目が眩んでいるだけなのかもしれません。でも、望みを自覚してから、彼と将来子どもをもった時のことを、具体的に計画したり、話したりすることが、自然とできるようになりました。
その未来にワクワクする自分が確かにいる。人を生み出すことは、恐ろしく一方的であると理解したはずなのに、その光に向かっていきたいと、本能的に思う自分がいる。色々まだ考えてはしまうけれど、この自分の望みの強さに負けたい、と、私はだんだん思うようになりました。
そして、私の身勝手な賭けに付き合ってもらうからには、勝率をできる限り上げて、子どもが楽しく暮らせるように、たくさん準備もしていきたい。
もちろん、望んだからといって子どもを授かれるのか、まだ分かりません。でも、この強く光る自分自身の望みに正直でいたい。そして、もしも、子どもが私たちのところに来てくれたら。

すごくすごく会いたかったよ、あなたが望んでいたかは分からないけど、私たちは1000%、とってもとっても、あなたを望んでいた。あなたも望むように生きてね。私たちも応援するから、と。
そう、いつか、声をかけたい。