「ずっと捨てられないもの」という今回のテーマについて何を書こうか、自分には何か捨てられないものがあっただろうかと考えながら過ごしていた。

思いきりのいい私。捨てられないものなんてある?

周りからはよく慎重派・石橋を叩いて渡る人・よく物事を考えてるよね、とか、そういったお褒めの言葉を頂く私だが、案外思いきりが良い。全く物を溜め込まない。ズボラで延々と残っている時もあるが、捨てる時は一気に捨ててしまうし未練も何もない。

一瞬、後から使うかな?なんて考える時もあるが、その『後』がいつになるか分からないなら捨ててしまえ、といった具合に何でも捨てる。時々捨ててはいけないものまで捨てて「あーあ」となるが、それでもやっぱり後悔は無い。
それは人間関係にも同じことが言えて、去って行く人にも「お達者で!」と元気よく手が振れてしまう私なのだ。

そんな私が、ずっと捨てられないもの……?
物理的なものか精神的なものか、そもそも『捨てた』とは焼却炉で燃やされこの世から無くなったことを言うのか、私の眼前や思考から消えたら捨てたと言えるのか、と変に哲学的な事を考えてしまう。そしてそれを人に言っていたりする――こういう所がよく物事を考えている、と誤認されるんだろうな。

私の捨てられないものを実家で発見した

そんなこんなで頭を使う楽しい時間を過ごしていたのだが、実家に帰った際、母親から言われた一言で解決することになる。
「君、押し入れに入れてあるアレはいつ処分するの?」
その一言で、何と言われずとも走馬灯のように思い出した物があった。

部屋の押し入れの奥、暗くて狭いそこにある小さな段ボール。
そして、その中に入っている――通信講座の教科書たち……。
言葉が詰まった。そうだ、アレ、全然捨てられないんだ。
だって7万6千円もしたんだ。

社会人1年目、手に職でも付けようと、初めて自ら勉強のためにお金を出した。
しかも高かった。でも、これさえやれば資格が手に入る。資格が手に入るなら安いもんだと最初の3か月は楽しんでやっていたが、段々と分からなくなり、「また今度、また今度」を呪文のように繰り返していたら、やがて「また来年、また来年」と言葉が変わり、終に「いつかきっと、未来の私がいつかきっと」と希望なのか呪いなのかよく分からない事になり、私はついにソレを置いて実家を出て一人暮らしを始めたのだった。

一生やらないとわかっている。でも、これは捨てられない

久々に段ボールを開けてみれば、ピッカピカの教科書たちが廃れもせず待っており、同時に過去の私の「いつかきっと」って言葉が脳内を反響する。
しばらく哀れな捨て猫でも見つめる心境で教科書たちを見つめ、その後ゆっくりと段ボールを閉じた。そして確信した。

「……やらんわ、コレ。私この先、一生やらんわ。じゃあ捨てるか……。うーん、どうしよ」
1つ頷いてから私はH型でガムテープを貼り、そっと段ボールを押し入れに戻した。
「いや、やらんよ。私はやらんけど……誰か親族の中でやる人がおるかもしれん。全く予定はないけど未来の私の子供が、いつかきっとやる……かもしれん」

そんなこんなで煮え切らない私の判断。自分がこんなに執着しているなんて驚きである。
それだけ初めて踏み出した一歩というものは大切なのだろう。そこにあったのはただの教科書、紙の束ではなく、間違いなく私の第一歩だったのだ。
そうして『いつかきっと誰かが――』そんな新たな呪いと共に捨てられない教科書たちは、私の実家の押し入れでまた、永い眠りにつくことになったのだった。