ピンクは、幸せそうな顔をした色だ。

それは、ルノワールの描く少女のほっぺの色。
お腹をたらふくにするためのものじゃないマカロンの色。
手入れの行き届いた庭先にほころぶ薔薇の色。

そして多くの女が選べない色、だと思う。
華やかで目を惹き、可愛らしく悪びれもせず微笑みを携えるその色に、自分を重ねる事ができない人は多いのではないか。
洋服や鞄、身に付けるもの。意志があろうとなかろうと、自分を表現する手段となってしまうそれら。
自分の心持ちをこの色に預けていると思うと、居心地が悪い、と私も思ってしまっていた。

片思いの人とのデートの前に、ビビッドピンクのカーディガンを浮かれた気持ちで買ったこともあった。
でもやっぱり居心地が悪くて、鏡の前で脱いでは着てを繰り返して、結局違う服で出かけた。
ピンクをまとった「私本体」に、この色はマッチしていない、と思った。
カーディガンは結局、セカンドストリートで売ってしまった。

でも「私本体」は少しずつアップデートされていった。
自分のことを知るために、自分も他人も傷つけた10代の時を終え、ようやく形になってきた心。
人の悪意にも善意にも触れ、日を浴びるように雨に濡れるように、飛び交う言葉や満ちていく経験でその形を固めていった。

自分の心に正直になる。ピンクがほしい自分の声に耳を傾ける

そのうちに、自分がいつか当たり前に死ぬ存在だということがじわじわとわかってきた。
海の向こうを見つめれば、そこにはまるきり違う文化と生活があり、自分がこれまで持ってきた絶対的な価値観はやじろべえみたいにグラグラとし始めた。

そうやって目尻に皺が増えた頃には、私は自分が幸せでいることを許すことを知り、自分の思う美しさを持っていなくても自分を嫌いにならなくていいことを知った。
それならばと、私はただ、自分の心に正直になろうと思った。

服を選ぶとき、壁紙を選ぶとき、靴を選ぶとき、スマートホンのカバーを選ぶとき、どんなときでも、私は自分の心をチューニングする。
心がピンクを欲しがれば、耳を傾けて聞いてやる。どんなピンクがいいのかと、幸せなピンクの気持ちの割合を調合する。白と黒をまぜたり、赤を強めたり、青を強めたり。

まだまだ正直になりきれない日もあるけれど、昔に比べると、少しずつ、身の回りにピンクのものが増えてきた。
自分で選ぶことのできたピンクには、居心地の悪さを覚えなかった。この色に感じていた距離は、私が自分で作っていたんだなと思う。

自意識でがんじがらめのときから、ピンクは幸せの色だった

ふと思い出したことがある。
19歳、成人式の前撮りの日、化粧に慣れていなかった私に、にこやかな女性がメイクを施してくれた。化粧をされることでさえ、自意識にとらわれにとらわれて、冷や汗をかくような気持ちだった。
けれど、自分の肌の上にピンクのチークがほわりと置かれた時、自分の顔が変わったのがわかった。
薄っすらと色づいた頬。
かすかだけど、幸せの色をまとえているように見えた。

私はそのとき嬉しかった。
黙って鏡の中をじっと見つめていたけれど。
心のなかで言葉にすることもなかったけれど。
今の自分になってようやく、その時嬉しかったのだと気づくことができた。
「選べない」と決めつけなくても良かったんだ、もっと正直でいても良かったんだと思ったら、19歳の私に「似合うよ」と言いたくなった。

自分の心に言い訳なく置いておけるピンクが、誰かの心にももっと増えるといいなと今、ピンクの爪をして文字を打っている。