うすもも色のカーディガンを着ていたあの子みたいになりたかった
クラスで一番かわいいあの子は、ブレザーの下にうすもも色のカーディガンを着ていた。「華美な防寒着の着用は避けること」と生徒手帳には記載されていたから、あの子は服装点検の度に注意を受けていたのだった。
わたしはいつもこげ茶色のカーディガンを着ていた。紺色のブレザーにこげ茶色のカーディガン。それは「華美な防寒着」ではなかったようだった。点検の時、先生はわたしの横をすうっと足早に通り過ぎたからだ。
うすもも色のカーディガンはかわいかった。いいなあ、と思っていた。でも、先生に注意されることと天秤に掛けてそれを着る勇気はなかったし、もっと言えばわたしは、うすもも色のカーディガンを着たいというより、あの子みたいになりたかったのだ。クラスで一番かわいいあの子に。
こげ茶色のカーディガンを着るとき、安心も一緒に着込んでいた
うすもも色のカーディガンを着ているあの子が、クラスの一番上位のカーストにいることはなんていうか、どう考えても必然的なことだった。
だって、うすもも色のカーディガンだもの。こげ茶色のカーディガンを着ていたわたしは、ちょうど真ん中、あるいは時と場合による変則的なジャッジを加点した見方をすれば、「中の上」のグループにいたと思う。紺色ではないし、黒ではないし、こげ茶色だから。
クラスの中には、カーディガンを着込んでこない女の子たちもいた。彼女たちはブレザーの下に、学校指定のベストを着ていた。制服と同じ生地のベスト。
「あのベストはちょっとダサいから着たくないな」。だれも口には出さないけれど、ふとしたときにそういう空気みたいなものが、教室に漂った。
寒い日の体育の後、体操着から制服に着替える。こげ茶色のカーディガンを着る。そうやって安心みたいなものも一緒に着込む。
ブレザーから少しはみ出ているこげ茶色の袖はかわいい。うすもも色よりはまあ、地味かもしれないけれど。でもかわいい。だから、だいじょうぶ。
ここまで書いて、わたしはなんてことを言っているんだろう、と思う。
なんてみじめで、卑しくて、知性のない言葉ばかりを並べているんだろう。
上だの下だの、ジャッジだの加点だの、必然だの、安心だの、こげ茶色だの。それがなんだっていうのだ、確かなことは、16とか17とか18歳の女の子たちの、ひとりひとりのからだが、ただ等しくそこに存在するだけだというのに。
でも、16とか17とか18歳の時のわたしは、そのことに気づかずに、四角い教室の中でまっすぐ立ち続けるにはそれしか方法がないと思い込んでいた。うすもも色を着る勇気はないくせに、こげ茶色を着て安心している。たまにあの子に、「一緒に購買行こうよ」とパンを買いに行くのに誘われると嬉しかった。短くしたスカートの上にかぶさるうすもも色が、きらきらとしていた。
大人になった今でも、あの女の子たちのブレザーの下を時々思い出す
先生、うすもも色は華美な色ですか? こげ茶色は、華美ではないのですか?
口頭の注意だけが毎回続き、結局あの子はずっとあのカーディガンを着ていました。わたしは先生に怒られたことはありませんが、心の中でひどいことを考えていました。
指定のベストを着ないことで自分のことを守ろうとしていました。これは校則違反ではないのですか?
先生、わたしは二次不等式のことよりも、オリエント文明のことよりも、教えて欲しいことが、あるんです。
あの頃からずいぶんと年月が経ったけれど、あの女の子たちのそれぞれのブレザーの下を時々思い出す。
わたしはもう大人で、先生に教えを乞うような立場ではなくなり、社会に出て、さまざまな人と出会い、感激して身を震わす日々も、はたまた打ちのめされるような日々も経験した。
学校を卒業したら規則を書いた手帳なんてもらえず、ルールはさらに見えなくなる。自分で、判断していく。まだまだあまりにも未熟だけれど、それでもそんな時はあの頃の、あのずるい気持ちを引っ張り出してくる。忘れてはいけない気持ちだと思う。あれはわたしがした校則違反だから。
「あの子みたいになりたい」でも、「あのベストは着たくない」でもなく、大事なのはここにだけ存在する自分を愛してあげること。同じ分だけ、どんな人の存在も認める努力を惜しまないこと。
「うすもも色のカーディガンは一番かわいい」。それが、わたしの破りたいルール。