模試でE判定が続いても目指した医学部。入学後は順調だったけど
「適応障害ですね」
医師が淡々と告げて、私は俯いた。隣にいた母は、そうですか、と言ったきり黙り込んでしまった。
病院からの帰り道、私は空を見上げた。気持ちがいいくらいの快晴。雲一つ見えない空が眩しくて、私は目を逸らした。
高校三年生になってから、医学部を目指し始めた。いくら頑張っても、結果を出すことはできなかった。成績は下降し続け、模試ではE判定ばかり。母には、「向いていないんじゃない?」と言われた。
私は意固地になった。自分の成績でも合格できそうな医学部を探した。そして、地方国公立大の医学部に出願した。
三月上旬のある日、スマホを手にした母が部屋に飛び込んできた。
「あんた、受験番号いくつだったっけ?」
彼女の手は震えていた。恐る恐る画面を覗き込むと、そこには私の番号があった。思わず母と抱き合った。そうして、私は医学生になった。
学生生活の滑り出しは、順調だった。私は学校の近くにあるアパートで、独り暮らしを始めた。コロナ禍で初めの授業はオンラインだったが、地方だったこともあり、徐々に対面授業が再開していった。親しい友人もできた。忙しいけれども、充実した毎日。そんな日々が六年間続くと思っていた。
解剖実習が始まり不眠に。布団から出られなくなった日、母が来た
二年生の春から、解剖実習が始まった。人体構造を理解するために、実際のご遺体を解剖していく実習だ。実習室にはホルマリンの匂いが充満している。ご遺体の顔には、ガーゼが被せられていた。私たちは黙とうを捧げ、作業を開始した。
静まり返っている実習室。その中で、学生たちがピンセットやメスを繰る音が響く。ご遺体の皮が剥がされ、だんだん人間としての姿が失われていく。医学を志すっていうのはこういうことだったんだ。私は息をのんだ。
五月の中旬ごろから、私は不眠に悩まされるようになった。原因は分からない。夜になると、涙が出るようになった。学校も休みがちになった。
友人や先生方は口を揃えて、何かあったら言ってほしい、と言った。けれども、私は何も言わなかった。ここで言ったら、私の中の何かが崩れてしまうような気がした。
ある朝、私は布団から出ることができなくなった。その日は試験があった。学校や親から何回も電話がかかってきたけれども、出なかった。もう何もしたくなかった。
夜中に突然、インターホンが鳴り響いた。驚いて応答すると、そこに立っていたのは母だった。
「学校は休んでいいから。病院行こう」
母に連れられ、初めて心療内科を受診した。そこで適応障害と診断され、一年間休学することになった。
診断のおかげで学校を休むことはできたが、それから後悔に苛まれることになった。あの時、意固地になっていなかったら。あの時、誰かに助けを求められていたら。不眠は治らなかった。
手書きで250枚の小説を完成させた。隣には、母がいた
「新たな才能を待望しています」
ある日、何気なくスマホを見ていた時に小説新人賞の広告を目にした。物語を作り出すこと。それは私が幼いころから好きなことだった。何もない私にも、これならできるかもしれない。私は鉛筆を握った。
小説は二か月後に完成した。私は今までいろんなことを偽って生きてきたけれども、小説への愛だけは本物だった。約250枚の手書き原稿用紙は、ずしりと重かった。いつの間にか、不眠は治っていた。
夢中になって小説を書いている私に、母は何も言わなかった。あきれられているのかもしれない。あるいは、頭がおかしくなったと思われているかもしれない。不安を抱きながらも完成を伝えると、母は静かに「良かった」と告げた。
その時、私を変えたのは小説への愛ではなかったことに気がついた。
私は今、自分のこれからについて模索中だ。書き上げた小説は結局、投稿せずに手元に残している。母への感謝を忘れないために。