身体的に疲れすぎると、寝れなくなる。身体は疲れ切っていて、1秒でも早くベッドに倒れこみたいと思うが、いざ目を閉じると、おもしろいことに、全然寝れない。
これは、私が以前、フルマラソン大会やトレイルランニング大会の後に味わったことのある、不思議な夜である。
自分の限界を超えた経験を、マラソンやトレイルランで味わった
フルマラソンといえば、普段、走る距離の何倍も長いし、そもそも、大会となると、自分の持つ限界まで、いつの間にか自分自身を追い込んでいる。下手したら、自分の持っているもの以上を発揮していることだって多くある。
それは、他人と競うことにより、いつの間にか、自分の限界を突破しているからだろう。そうやって、ゴール地点までたどり着いた身体は、すっかり疲弊しきっているに決まっているし、思考能力さえ低下している。普段悩んでいることなどどうでも良くなり、ただ、呼吸が出来ているだけで幸せを感じるような境地だ。
私は何度か、自分でも自分の限界を超えた経験をマラソンやトレイルランで味わってきた。スタートラインに立っている時には、まだ知らない世界がゴール地点には待っている。それは、期待を大きく上回ることもあれば、大きく下回ることもある。
ゴール地点まで行かないと、全く分からない。途中で辞めることだって出来ないことはないが、なぜか限界まで追い込まれると、自分を試されている感じが、逆に、自分の中にあるエネルギーを再び燃やす源になり、スイッチが入る。
コロナになってからは、大会も激減し、ここ数年は、そのような大会や、「寝れない夜」から遠ざかって久しい。今の自分は、当時のような体力もないし、正直、そこまで追い込むことが出来るかどうかは、自信がない。
あんなこと、よくできたものだと、今になっては思う。
久しぶりの大会で味わった疲労感と充実感は、正真正銘の夢心地
そんな中、私はつい先日、ずいぶん久しぶりに、トレイルランの大会に出場してきた。
40㎞の距離を走るわけだが、やはり日常でのトレーニングもそんなに頑張ってしていたわけでもないので、自分の体力の落ち具合を痛感した。
山って別に走る必要なんてないのでは?歩けば良いだろう、と自問自答しながら、走っていた。景色を楽しみたいのに、何で走っているんだろう、とか。
案の定、ゴール地点にたどり着く頃には、身体は疲弊しきり、ふらふらだった。以前に比べれば、全然思うように走ることは出来なかったが、純粋に走ることと山が大好きなので、疲労感も充実感も、最高だった。
その日の夜は、家に帰り、洗濯もせず、スマホもいじらず、疲れ切って、ベッドに倒れこむようにして寝た。疲れすぎて寝れないと思ったが、爆睡した。
しかし、夜中になり、何度も目が覚めた。それは、筋肉痛で脚が悲鳴を上げているからである。まさに、非日常であり、どうすることも出来ない。
筋肉痛は決して心地良いものではないし、痛みは好きではない。それでも、久しぶりに味わった痛みにどこか懐かしさと、一生懸命になることが純粋に好きだったなあという気持ちで、正真正銘の夢心地だった。
考えることが出来ないくらい疲れた状態が、私には必要だ
私は考えることが癖になっているので、考える必要のないこと、答えのないこと、どうでも良いこと、考えてもどうしようもないこと、とにかく、色々と考えてしまう。
そうやって迎える夜は、不安に押し潰されそうになってどうしようもない。しかし、身体を限界まで追い込むと、心ではなく体が単純に疲れる。
一時期、体だけが疲れることは現実からの逃げであって、意味がない、と考えることが多くあった。しかし、久しぶりに大会に出てみると、そんなことは本当にどうでも良いと改めて思った。
走るのが好きだから、走っている。それ以上、それ以下でもない。
少なくとも、考えることが出来ないくらい疲れた状態は、私にとっては、必要だ。