「出産は、私たちが出来事を“受け止める”能力を試される試練の一つだ」
今回これを書き、私が出産について思ったことの一つだ。
「なぜ自分の子だけが」と叫ぶ劇中の親たちに覚えた違和感
とある医療ドラマを見た。個性的な産婦人科医と、“出産”を題材にしたドラマだ。ドラマ名は伏せておくが、かなり有名なドラマなので、この簡単な説明だけでもピンと来た方はたくさんいるはずだ。
シーズン1を一気見した。一番印象に残ったのは、強烈な個性の登場人物たちでも、リアルな出産シーンでもなかった。わが子に起きたことに対する、妊婦さんやその旦那さんたちの反応だ。
劇中の親たちは口をそろえて言う。
「どうして、私の子が?」
「どうして私の赤ちゃんだけがこんな目に合わなければいけないの?」
ほかの子はみな何の問題もなく生まれているのに、なぜ自分の子だけが、こんな状況に晒されなければいけないのか。そう叫ぶ親たちに、なぜか違和感を覚えた。なぜだろう?
人は、すべての出来事をコントロールできるわけではない。
とある現象が起こりうる“傾向”はあるが、誰も完璧に予測し、支配することはできない。
ましてや、赤ちゃんは、生まれるまで誰一人として、“直接”目で診察することなどできないのだから、不測の事態がおこりうるのは当然のことだ。
だから生じたことは、完全に両親のせいでもないし、主治医のせいだとも言い切れない。
赤ちゃんにどんな出来事が生じたとしても、そのほとんどは、偶然起きたものなのだ、少なくとも私はそう考えている。
共感できない親の姿に、最近似た感情を抱いたとはっとした
“起きたこと”に、幸運も不運もない。ただ生じているだけなのだ。だからこそ、両親にできることは、自分を責めることでも、他の健康に見える赤ちゃんたちと比較することでもなく、出来事をいったん受け止め、受け入れることなんじゃないか?
画面のこちら側にいる私は、親たちが、そんな対応をすぐ冷静にできるはずもないことを思いやることなく、無責任にそう思っていた。
だから、「なぜ私の子が?」そう訴える親たちの姿に、初めは共感ができなかった。
しかし、よく考えて私ははっとした。そういえば最近似た感情を抱いた。
「どうして私が?」
「どうして私だけ?」
私は、目下休職中である。詳細は省くが、診断書にはうつ病と書かれていた。
今年で、丁度新卒3年目。大事な時期だ。
同期や後輩は、ハードな環境でも、大量の仕事をさばき、すでに自分の担当案件を持っている人間もいる。
ただでさえ後れを取っている私が、なぜ。
私は、なぜ同期や後輩のように働けない?
なぜ私にはできないのだろう。
わが子に起きた困難に直面する両親と、メンタルを病み仕事を休んでいる私を、同じ物差しで比べるのは、親御さん方に対し失礼なことかもしれない。
でも両者は重なって見えた。
どちらも起きたことを、冷静に受け止めることができないでいる。
そして、叫んでいる。「なぜ私がこんな目に合う?」と。
不運も幸運も、本当はきっとない。ただ生じているだけ
前述のとおり、出来事に、不運も、幸運も、本当はきっとない。
ただ生じているだけだ。少なくとも私はそう考えている。
だからできることは、本当に本当に、残酷なことだが、“受け止め、受け入れる”ことだけなのではないだろうか。
他の子は、普通に元気そうに見えるかもしれない。
同期は、普通に順調に働いているようにみえるかもしれない。
ただそれは、そのひとたちに、それが生じているだけなのだ。
私に起きていることも、ただ生じただけだ。不運にしているのは私だ。
ただ起きているだけだ。だから、起きたことをいったん受け止める必要がある。
私は、それを改めて思い知らされた。
画面の向こう側、ドラマの中の妊婦さんやその旦那さんたちは、どんなことが起きたとしても、受け止め、受け入れることの大切さを確かめさせてくれた。
もちろんそれは時に本当に辛く、受け入れ難い苦痛を伴う。そしてすぐにそれをすることは、決して容易ではない。しかし私たち人間にはどうしても必要なことなのだ。
そう考えている。
ドラマの劇中、夫が、妻かお腹の赤ちゃんか、究極の選択を迫られるシーンがある。選択した結果に、夫は耐えきれず慟哭していた。しかし徐々にそれを受け入れ、育児に奮闘する立派な父となった。ドラマ終盤、そんな父へ発した娘の言葉に、号泣しながら微笑みを見せていた。
受け入れることは、時に残酷で、苦しみをその人に押し付けるだけの行為のように見える。でも、起きたことを、受け入れる、その後に待っているのは、絶望だけではないのかもしれない。