私の小物入れの中には、小さな折り鶴がしまってある。それは、中学生の時に、とにかく小さな折り鶴を作る事が流行った時に、同じ部活に所属していた男の子にもらったものだ。

貰ったその時に折り鶴を捨てなかった事に、実は好きだったとかそういう感情はなかったと思う。それが折り鶴という事と、誰かの手によって作られた物であるという事が、私に捨てる事をためらわせた。
たぶん、それだけ。捨てられないまま、ずっと小物入れの中に偶然残っただけだ。

折り鶴をもらった瞬間を覚えている。あの子の得意げな顔を

その子とは、得意な事や好きな事が似ていて、お互いに自分より上である事を認められずに競いあっていた仲だった。その折り鶴も、私の作った小さな折り鶴に対抗する形で、差し出されたものだ。

テストの結果とか難しい言葉や言い回し、いろんな事で競争して得意げになったり言い負かされたりしていたけれど、数少ない貰った物の中で残ったのは、その折り鶴だけだ。その折り鶴を貰った後、私がさらに小さな折り鶴を作ったのか、そのまま小さな折り鶴を作る事自体が廃れてしまったのか、その後の行動は覚えてすらいない。

競争していた子からもらった、その折り鶴が残っているからこそ、私はあの瞬間を覚えている。
あの時、小さな折り鶴を作るのにはまっていた事と、その折り鶴を私に差し出した時のあの子の得意げな顔を。そしてその顔にほんの少しだけ、悔しいではなくカッコいいと感じた事を。

ただの小さい折り鶴が、懐かしい日々を思い出させるものに

それが本当の出来事なのか、私の中でうまく作られた作り話の一部なのかすら思い出せないくらいの時間がたってしまった。それでも、理由もなくただ捨てられなかった小さな折り鶴は、卒業してからの長い時間を経て、私の中でどんどん遠くなる中学生時代の懐かしい日々を思い出せる、数少ない品の一つになった。

この先、私はこの小さな折り鶴を捨てられないと思う。
受け取った時は何も感じなかった折り鶴だけど、それからの過ごした時間の分だけ、今では大切な宝物になった。そしてこれから先もずっと、大切な宝物だ。

お守りみたいに持ち歩くわけではないし、ありがたがるような効果も期待できない。好きだった人からもらった、みたいなキュンキュンするようなエピソードがあるわけでもない。
それでも、確かにあの瞬間が存在していた事、それからずっと今が続いていてきた事の証だ。

何げないものや言葉が、宝物になりうることを知ったから

これからの未来で、競争していたあの子に会う事はきっとないだろうし、会ってもあの頃と同じようにお互いに競争するような事はもうないだろう。私と同じように同じだけ成長して大人になって、それぞれの人生を歩んでいるのだから。
競争していたあの瞬間は、お互いに同じような道を見ていたからこそできたものだ。それでも、確かに存在していた。

あの時の私は、今の私の一部になっている。小さな折り鶴は、私にそんな懐かしさと希望を感じさせてくれる。
何が大切なものになるかは、その瞬間には分からない。私の小さな折り鶴のように何気ないプレゼントや言葉が、時間を経て誰かの宝物になったりする。そんな出来事が存在するからこそ、一つ一つの行動や言葉に丁寧な思いを詰めて大切な人たちに贈っていけるような素敵な人でいたい。