「どうしよう」
電話口の声は震えていた。
「いまテレビでやってるニュース。被害者の中に名前があった」
当時一人暮らしをしていた私はテレビを持っていなかったけど、それでもネットで大々的に報じられていたから、母が何のニュースを指しているのか、すぐにわかってしまった。
母はフルネームを口にし、覚えてる?と続けた。
覚えてる、と言うには記憶が遠すぎた。幼稚園時代の同級生だ。それでも名前に聞き覚えはあったし、仲良しグループの一員だったはずだ、とおぼろげながらに思い出した。
ほとんど涙声となっていた母は、「また連絡するわ」と言い、電話は切れた。

初めて行くお通夜が同い年の子のものだと気づき、胸が苦しくなった

狭いワンルームの部屋をうろうろし、訳もなく窓から外を眺め、どれくらい時間が経っただろう。
「やっぱりそうでした。仲が良かったみなさんでお花を送ることにしました」
母からのメールで、「ああ、本当に亡くなったんだ」と思った。

上京していた同じ幼稚園の子と実に13年ぶりに連絡を取り、一緒にお通夜に行くことにした。
「こんな形で再会することになるなんてね」
互いにそれ以上の言葉はみつからず、駅から会場までの道を黙って歩いた。

会場には圧倒されるほど大勢の若者がいた。親戚がほとんどおらず、葬儀やお通夜、法事とは無縁で育ってきた私にとって、初めてのお通夜が同い年の子のものであることに気づき、胸が苦しくなった。
お線香をあげ、再び駅まで歩いた。一緒に参列した彼は幼稚園の頃から元気いっぱいで、大学では実業団入りを目指してスポーツに打ち込んでいたような子だったけど、目が赤かったのは見間違えではないと思う。

同級生が巻き込まれた事故の報道を見た瞬間、視界が滲んだ

彼と別れ、電車に乗った。乗り換えを済ませ、乗り慣れた路線の電車の中でふと顔を上げると、液晶パネルでニュースが報じられていた。つい先ほど、私がお通夜に出た子が巻き込まれた事故についてだった。
その瞬間、ぼわっと視界が滲んだ。つり革をぐっと掴んで下を向くと、履き慣れないパンプスの周りにぽたぽたと涙が落ちた。夕方の車内はそこそこ混んでいて、いけない、と思ったけど涙が止まることはなく、私の足元だけ不自然に濡れていった。

事故の原因の一つは、従業員に無理な働き方をさせる会社の体質のようだった。
事故後、私は労働問題に取り組むNPO法人の活動に参加した。従業員に賃金を払わない会社との団体交渉に出たり、勉強会で労働法を学んだりした。
法学部ではなかったけど、取った法学の授業では、事故を起こした業界の労働環境がいかに厳しいものか、EUと日本の法律を比較したレポートを書いた。
団体交渉の結果、会社は賃金未払いで労基署から是正勧告を受け、法学の授業で書いたレポートにはAAの成績がついた。

諦めてしまっては変革は望めない。 そしてどこかで誰かが傷つく

私の行動に何の意味があったのかはわからない。そもそも意味などなくて、単なる自己満足ともいえる。だって社会はなかなか変わらないから。
現に私が新卒で入った会社はサービス残業や持ち帰り残業が当然だった。休みは週に1日で、毎日3、4時間しか寝られなかった。

それでも、諦めてしまっては変革は望めない。
見えないふりをする人が増えるほど、改善は遠くなる。
そしてどこかで誰かが傷つく。

同級生が迎えることのなかった20代も半分が終わった。世の中に対する怒りを若さ故のものにはしたくない。
30代でも40代でも、いつくるかわからないこの命の終わりまで、自分にできることを考える人間でいよう。たとえ壁が高くても、戦う相手が巨大でも、一人の力を信じたい。