目の前で肉を吐き出された。これが私にとって人生初のアルバイトの思い出。
高時給につられて派遣の試食販売をした。既に火が通っているローストビーフをホットプレートで温めて提供した。
ホットプレートは派遣会社から送られてきたものを都内のスーパーまで持参。それに加えてエプロンや必要なものを持っていく必要があったため、到着した時点で体力をかなり消耗していた。

求人広告に反して最低賃金ぎりぎりの時給だったことに気が付く

ローストビーフの試食は人気だった。3回並んで食べる人もいたくらいには。
私のトークスキルは押し売りをするには乏しく、たとえ試食をしたことによって商品を勧められても断りやすいと思われていたのだろう。3か月前まで中学生だったのもあり青臭さ、幼さが完全に抜けきっていなかった。
しかし、売り上げや試食をさばいた数は私の給料には何の影響も及ぼさないため、むしろ受け取ってもらえるだけありがたいと思えた。暇を持て余して「いらっしゃいませぇ~」を連呼している時間はだいぶ虚しい。

派遣で来た私にはお昼休憩での居場所がなく、従業員専用の通路の端でじっと立っていた。水分補給だけ済ませると、頭の中で給料を計算していた。求人広告には1500円以上と書いてあったのに、受け取れるのは最低賃金ギリギリの金額だったことに気が付く。
あーあ、と思いながらも今更どうにもできない。憂鬱な気持ちで腕時計の秒針を目で追っていた。

人生で初めて、「申し訳ございません」という言葉を口にした日

午後は一層、客足が増えた。こちらから勧めるまでもなく匂いにつられて続々と人が寄ってくる。
50歳台後半くらいの女性がローストビーフの入ったトレーを手に取った。数回噛んで顔をしかめると口から吐き出した。吐き出された肉をご丁寧にトレーへ乗せると、ゴミ箱に捨てた。「これまだ生よ」、と。
そんなわけがない。もう十分に火が通っていて、けれど温かい方がいいだろうという理由でホットプレートを使用しているだけ。商品にも『そのまま食べられます!』のシールが貼ってあったのに。たぶん、ローストビーフ自体が口に合わないのだろう。それでも謝罪をするしかなかった。私が「申し訳ございません」の言葉を口にしたのはこの日が初めてだった。これが働くという事なのだと実感した。

帰り道のホットプレートはびっくりするほど重く、それを入れていた袋を何度も肩にかけ直した。足はパンパンで、背中のリュックは薪でも背負っているのかと思うほどずっしりとしていた。給料のことはもう考えるのをやめた。
午前7時に家を出たのに、帰宅したのは午後10時。
朝ごはんぶりの固形物を噛み締め、痛む腰に湿布を貼った。アイスクリームのカップをお風呂に持ち込んで自分を労る。普段は金銭的な事情でラクトアイスしか食べないが、この時ばかりはアイスミルクしか身体が受け付けなかった。

最後は父親の介入で終了。目先の給料にはつられないことを心に誓った

それから何回か試食販売を経験したけれど、夏休み前にはやめた。派遣会社から授業中にも「アルバイトしませんか?」とかかってきた。断っても断ってもしつこく鳴る電話。父に介入してもらう事態になった。
それ以来、私は目先の給料にはつられないことを心に誓った。現在は塾講師をしている。決して賃金が高いとは言えない。だが、家から近く、休憩時間もあり、ずっと立っている必要がないこの仕事を気に入っている。やりがいも感じる。なにより、仕事内容と時給が見合っている。
ちなみに、試食販売のアルバイト研修5時間分の給料はいまも支払われていない。