知りたがりな性格。全部自分の目で確かめたくて留学を申し込んだ
「アメリカ行ってくる」
20歳の夏、私は両親に伝えた。
当時家庭の懐事情が若干複雑で 、切り詰めて東京に送り出して貰ったのに、今度はアメリカだなんて中々親不孝だったと思う。
「1年間の留学を含む4年間で、日本の大学を卒業する」「成績優秀者に与えられる無返済の奨学金を取る」という条件付きで両親の許可を取った。
留学制度を利用するために、学部の成績は優秀をキープしなければならなかったし、それと別に英語の試験も、求められる数字を取らなければいけなかった。
バイトと部活に追われる中で、勉強をこなし続けた当時は、今振り返ると社会人生活の比でないくらい時間に追われてて、バイトのシフトが上手く入らない時は、もやしを食べて凌いでた。
キラキラな大学生活を送る友人の隣で、もやし生活をしてまで渡米したかった理由の一つは、知りたがりな性格ゆえだと思う。
私の英語って通じるの?パーティーって何をするの?ラスベガスでは本当に踊っているの?
全部自分の目で確かめたくて申し込んだ。
言葉が伝わった時はうれしかった。毎日会うのが本当に楽しかった
もう一つはお母さんを超えたい、という一種のコンプレックスだったと思う。
英語教師で早くに結婚し私を産んだ母は「本当は海外留学行きたかったの」と言い続けていた。
本当に失礼な話だけど、私はそう言い続ける大人になりたくなかったし、親になった時に娘に自分の夢を背負わせたくなかった。
猛勉強は実を結び、無事奨学金を取って、英語試験のスコアもギリギリで合格点を獲得して3年生の春に渡米した。勉強したにも関わらず、ネイティブに英語は全く通じなくてバスに乗るのも一苦労な日々が始まった。
3ヶ月だけ通った語学学校には、クウェートや中国、韓国やヨーロッパ諸国から留学生が集まっていた。
お互い聞きたいこと、話したいことが沢山あるのに伝わらないことがもどかしくて、伝わった時は嬉しくて、毎日会うのが本当に楽しかった。ダウンタウンに繰り出して、アイスクリームを食べながら帰国した後のプランを語りあう日々は、日本で勉強に明け暮れていた私には、やっと手に入れられたキャンパスライフで、今でもちょっと眩しく感じる。
この先会うこともないだろう。そう開き直ると、楽になれた
英語力よりも身についたのは、多分積極性だと思う。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、生きるため、衣食住を得るために話すしかなかった。「旅の恥はかき捨て」とはよく言ったもので、この地であった人にはこの先2度と会うこともないだろう、と開き直ると楽になれた。
授業では、教授は留学生とかそんなの関係無しに授業を進める。またディスカッション形式で授業は進むから、発言しない即ち欠席扱いとなる。どうしても発言出来なかったある日、教授は「あなたが望めば私の部屋に来て、意見を言っても良い」と言ってくれた。
授業外の時間を使って、留学生のままならない意見に耳を傾け、時にはGoogle翻訳を使いながら私に単位をくれた。
授業でクタクタの心身を癒すべく、ジャズ発祥の地ニューオリンズに秋休みは訪れた。有色人種の住人が居住していて、治安が良くないと日本では教えられたけれど、実際に行ってみると、多くの方がゆっくり丁寧な会話に努めてくれた。本格的なジャズは初めてと断りつつ劇場に入ると、「折角のジャズデビューだから」と1番前に通してくれた。
慣れない留学生活の中で、心からほっとできた場面だったと思う。
「留学して得たものは何ですか?」
この質問は長期留学した就活生なら、必ず面接で問いかけられる。きっとその答えは英語力なんてものだけじゃなく、身につけざるを得なかった積極性と、実際に確かめなきゃ分からなかった日常だ。
日本にいたら分からなかった、ささやかな経験を、1年間で沢山できた。
教授やクラスメート、ニューオリンズの劇場の優しいおじさまのお陰で、今後ヘイトスピーチや苦しいニュースを聞いても、私は「○○人が嫌い」となることは絶対無い。
耳を塞ぎたくなるようなニュースは目を背けてはいけない事実だ。
それと同じように、あの時私が受け取った心づかいや、思いやりも紛れもない事実だ。
きっと私が現地で出会った人たちは、この世界の住人の一部に過ぎないけれど、彼らと築けた思い出は真実で、この先忘れることは無い。
「この広い広い世界には、素晴らしい人たちが沢山いる」。それを自分の目で確かめたことが、私の20歳、夏の決断の意味だと思う。