「英語を学ぶことは、世界を知る事だ。」
 私は中学時代、英語の先生からこの言葉を聞いて、英語が大好きになった。好奇心旺盛で何事にも興味があった私は、「英語を学ばないと、私の好きな事は出来ない!」とさえ考え、英語を極めていこうと当時決意した。

 英語を極める為に、先ず英語の成績だけでも上げようと必死に努力した。英単語をひたすら覚え、学校の授業は予習復習欠かさずに行い、洋画や洋楽を観聞きしてリスニング力も上げた。その努力の甲斐あってか、中学2年、3年と私はずっと英語だけ学年一位の成績だった。

 高校では英語科のある高校に進学し、短期留学の挑戦をした。オーストラリアへ1カ月間の短い語学研修であったが、私はその期間、何度も困難に直面した。
それは、「英語を話す事」だ。現地の語学学校に通った私は、他

国からの留学生が話す英語の速さに、発音の良さに度肝を抜かれてしまった。そんな私は、授業内容は理解出来ても自分の意見を発する事が出来ず、やきもきした気持ちになっていた。
普段私はシャイな方ではないのに、何故英語を話すときだけ話せなくなるのかと考え込むようになってしまい、段々と自分に自信が無くなって来てしまった。
すると何故か留学前は当然のように日常英会話が理解出来ていたが、段々と出来なくなってしまった。

使い物にならない英語を学んできたのかと悩んでいたある日・・・

「どんなに英単語を知っていても、どんなにリスニング力があっても、結局はアウトプットが出来なければ、使い物にならない。私は留学前、使い物にならない英語の知識を学んでいたのか。」と何度も自問自答し、今まで日本で頑張ってきた英語の勉強は何だったのかと病んでしまった。

 だがある日、授業で仲良くなった一人のトルコ人クラスメイトが、ランチへ誘ってくれた。ランチ中に、彼女はこんな悩みを私に打ち明けてくれた。「みんな英語話すのが早くてすごいわよね、しかも発音もみんなオージーの人みたいだし(オージーとは、オーストラリアの、と言う意味)。」と彼女の言葉を聞き、私はこう感じた。「なんだ、彼女も私と同じこと思ってたんだ。」それと同時に、彼女からトルコではチャイティーが有名であるという豆知識を聞き、彼女と一緒に私は初めてチャイティーを飲んだ。その日から私はチャイティーの虜だ。

 ランチ後の授業で、私は他のクラスメイトの発音や英単語をいつもより注意深く聞いてみた。いつも通りネイティブ並みの速さで話しているクラスメイト達の言葉を丁寧に拾うのはとても苦労したが、1つこんな事を発見出来た。
それは、「早い英語を話している彼らは完璧な英語を話していない。」という事だ。
いや正確に言うと、「私も彼らも、完璧な英語を話していない。」みんなネイティブ並みの完璧な英語を話していないと分かった瞬間、一人じゃないんだという安心感が生まれ、心のどこかで余裕が持てるようになった。

完璧じゃなくていいと気付いたら世界中で新しい人や土地を発見出来た

 その一件から、私は「なんだ、完璧じゃなくても良いんだ。」と思えるようになった。それまで英語を話す事だけにも関わらず、無駄に気を張っていたのかもしれないと気づいたのだ。
確かに、日本では英語を話す人は今でも珍しく感じるが、世界では英語を生活用語として使っている人もいる。そして、留学生たちは英語を共通言語として使っていた。言い換えると、英語は生活必需品のような物でもあるのだ。
 そんな世界で生活していく上で必要な言語を、使わないで終わってしまう人生は勿体ない。
そう感じた私は、皆完璧な英語を話していないと気づいたその日から、彼らも完璧ではないのだから、私だって完璧である必要はない、気を張る必要はないのだと気づき、自然と英語が話せるようになった。

 英語が話せるようになってから、私は世界中を旅した。全世界とは言わずとも、南極大陸以外の全大陸は制覇した。
英語を話さない国の人でも英語を少しだけなら理解はできる。なので、英語さえ話せればあとはジェスチャーなり、ノリで彼ら達と会話が出来る。そんな事にも気づいた私は、英語をもっと好きになった。と言うよりも、英語を使って新しい人、土地、空気を発見出来るようになった。

 ここで私が英語を好きになった原点に戻る。中学の先生の言葉、「英語を学ぶことは、世界を知る事だ。」この言葉の意味を今やっと理解できた気がする。私はトルコ人の彼女と出会っただけでも、英語の楽しさ、チャイティーの美味しさを発見出来た。
これから私は、英語だけでなくても他の言語でもこの言葉が共通して言えるのか、試してみたい。つまり、英語以外の言語も学び、どんな世界が待っているのかを見てみたい。