楽譜も読めないけど、吹奏楽部に入部希望を出した

未だ白紙状態の希望用紙を、二つ折りにしてファイルにしまった。
中学生になり、クラブ活動は本格的な部活動へと変わった。
運動が苦手な生徒は、自然と運動部は選択肢から消去される。
美術部のデッサン、家庭科部の裁縫やお菓子作り、どれも素敵な雰囲気はあるが、結局どちらを選べばいいのかわからない。
第三希望まで紙に書いて提出とのことだったが、どちらでも似たようなものだと思いつつ、第一希望を書けずにいたのは、もう一つ、友人と体験に行った吹奏楽部がずっと印象に残っていたからだ。

地元ではいわゆる強豪校で、文化部とはいえ体育会系の空気感。部活動紹介では六十人弱の生徒たちが演奏しながら振り付けを踊る、ミュージカルのワンシーンのような構成の演出で、どの部活紹介よりも目立っていた。
あの光景の一部になって演奏する自分は、まだ上手く描けない。
初心者どころか、小学校時代の音楽会で鉄琴を叩いていた私は、楽譜もまともに読めず、ろくに演奏できなくて叱られたトラウマすらある。

周りにその事を話すと、「あんたには無理だよ」「絶対にやめた方がいい」と、みんなから言われた。
でも、あんな場所で音楽ができたら。
そう思うと根拠のない期待と高揚感でいっぱいになって、楽しそう、という軽いノリで書き込んだ。

基礎練習と私の怠惰な性格で、入部1ヶ月でリタイア寸前

始まった部活ライフ。まずは予定表が配られるところからスタート。
平日16:20〜18:40。
休日は8:30〜12:00。
えっと、休みは?
目を凝らしてよく探すと、三日ほど「休日」と書かれた日があった。
「その日、私が会議でいないので休みにします」と顧問は話した。
え?会議がなかったら練習があったというような言い方。

始まった部活ライフは、自主的なふりをした強制参加の朝練があり、休日は暗黙の了解で午後の自主練習があった。
初心者用の基礎練習と地味なパートばかり担当していた私は、怠惰な性格もあって入部から一ヶ月でもうリタイア寸前だった。
それでも日々きちんと努力している同級生は、私をあっという間に追い越して先輩と同じレベルで演奏している。
休みたいし、つまらないし、自分が惨めだ。そう思った。

同級生や先輩達は度々そんな私を叱った。
「なんでちゃんと練習しないの?」「なんでみんなと同じように頑張らないの?」「あなたのために言ってるんだよ」と。
叱るというか、単にだらしない私に怒っていたんだろうが、「やる気がないならさっさと辞めてよ」と、小学校からの友達に言われた時は、流石にショックを受けた。

だがショックを受けたということは、自分の受けた傷にしか敏感になれていない、ということに等しい。
実際、私はそれまでそういう人間だった。この部に入部するまで、何も理解していなかった。
自分のことばかり考えて、本気で何かに取り組んだことも、努力したこともなかったから、周りの真剣さに考えが及んでいなかったのだと思う。

やっと周りに追いつけるようになった時には、既に三年生の二学期だった。
たくさんいた同級生は、三年の間に少し減った。
後輩ができて、その中に私のような子を何人か見た。
練習もせず、部活も度々休んで、いつの間にか他の後輩達と溝ができていた。
ある一人は「中学の部活に、そこまでできない」と言った。その気持ちもよくわかるから、責めたりはしなかったが、二年前の先輩達や同級生の気持ちを初めてきちんと理解できた気がした。

当然耐えられず去っていく子達もいて、友人達と、楽しそうにさっさと下校していくのを、私は三階の窓から見ていた。
そういえば、もうしばらく友達と遊びに行っていない。それどころか、まず日暮れ前に帰宅した記憶がない。背景の、遠くの太陽が傾いていくのを楽譜をめくりながら眺めた。
だけど、そんな今だからわかる。全てを注ぐ事の尊さが。

吹奏楽部入部の決断は「楽しいと感じること」に飛び込む勇気をくれた

進路は部活推薦に決まり、結果六年間、吹奏楽部に所属することになった。
高校三年生の春、部活紹介で演奏前の部長挨拶をしている途中、ふといまの自分はどう見えているのだろうと思った。
まさか、ただ楽しそうだからと入部した部活が進路にまで関わるとは、予想もしていなかった。六年前憧れた景色を、次はここにいる別の誰かに、見せることができただろうか。私はマイクを握りなおした。

実際、中学校時代の部活なんてものは、他人から見れば大した出来事でもない。だがその些細な決断があったからこそ、あの日のわくわくを信じた自分を、今日、また信じ続けようと思える。
この先の未来も、二つに折りの希望用紙のようにまだ白紙のまま。
それでも、そこに不安はないから、私は立ち止まらず進んで行ける。
あの時の小さな選択が、「楽しい」へ迷いなく飛び込む勇気を、私に与えてくれるのだ。