一昨年の秋、親戚の姉妹が出産した。片方は男の子で、片方は女の子だ。父や祖母のスマホに動画や写真が送られてくるので、よく見せてもらっている。
目も開いていないふにゃふにゃした生きものが、自分で歩いて名前を呼ばれて返事をするようになる過程は、本当に興味深いし面白い。

子どもという興味深い存在。それは血のつながりとは関係なく

もっとも、我々の祖母は決してハイカラなおばあさんではない。機械音痴のせいなのか、スマホのバッテリーは過充電かリフレッシュの二択という極端さだ。
家族の誰かしらが訪問する度に、代わりに通知だらけのラインをチェックしてあげている。かわいい幼児たちの動画のいくつかは、残念ながら再生期限が切れて見られなくなっていたりしていた。

自分の子どもではないけれど、成長を一つ見逃してしまったような気がして、毎回惜しい気持ちになる。街でもすれ違う赤ちゃんと目が合うと、何故か目を逸らせずに数秒間アイコンタクトを取ってしまう。
コミュニケーションというよりは、対象の観察だ。向こうも多分そう思っている。お互いの挙動から目を離してはいけないという気分にさせられてしまう。

以前、子どもが苦手だったというお母さんの投稿を拝見したことがある。
ご自身は妊娠した際に、その存在を受け入れられるかどうか不安だったそうだ。出産して育児を始めると、確かに意識が変わった。無理にかわいいと思うより、面白い、興味深い存在だと知ることが出来てよかったとのこと。大いに共感した。

興味深い「子ども」を産み育ててみたいが、現実的とは言えない

こんなに興味深い存在なら自分で産んで育ててみたいものだが、あまり現実的とはいえない。異性のパートナーも同性のパートナーもいないので、必然的に未婚の母という選択肢になる。
自分の意志で精子提供を受けて、親一人子一人で真剣に生きている。それを出会う人全員に説明するのは想像しただけで疲れてしまう。
何より、私のプライドはエベレスト並みだ。未婚の母に対する邪推の一つや二つをぶつけられて、我が子の前で相手をボコボコにしないと言い切れない。
女性を伴侶としてパートナー宣誓をしたとしても、同じ問題に突き当たる。私が出産をしても、パートナーは親として認められないのだ。

それなら異性のパートナーを探して結婚すればよいと人は言う。しかし、ねじれにねじれた心のエベレストは、完全に私を性愛から遠ざけたまま、アラサーにしてしまった。自分のだめなところが受け入れられないので、相手の長所短所を認めることができないのだ。
好きな人はいたことがあるけれど、自覚すると同時に難癖をあれこれつけて諦めようとする心理が働いた。妊娠以前に、もう一人の運命共同体をそばに置けると思えないのである。

家族関係の他にも、懸念事項がある。一個人から母体へと、自分の単位が変わってしまうことだ。
十月十日の間、母体は激しい運動ができない。ワクチンが打てない。重いものが持てない。お腹に力を込めてはいけない。体を冷やしてはいけない。授乳をするならばアルコールと煙草の煙は避けなければならない。産後は尿漏れを起こしやすくなる。
自分らしく生活するということがほぼ叶わなくなる点で、だいぶ尻込みしてしまう。

出産による影響を理解していない人が、「産んで」と言っている

極端な解決策ではあるが、とあるSF漫画では、国が生殖と育児を担っていた。
人工授精と機械の子宮で幼児を育て、養子縁組で家族を得るのが一般的になっている。女性の乳房などは退化(見方によっては進化)しており、月経による体調不良もなく、排卵のみが機能として残っていると推測される。
思うに、この文明は大昔に少子化に悩まされたのではないだろうか。
出生率が上がらない原因の一つに、前述の妊娠と出産による女性たちの体のハンデがある。それが個人の十分なパフォーマンスの発揮を妨げ、文化や産業面での損失が発生するという弊害もあった。母体が負うダメージやリスクを解決しない限り、一連の文明の衰退は止められないという危機感が人々を動かしたと考えている。

ここまでやってほしいというわけではない。出産は女性にとって制約も危険も伴う行為だということを、正しく理解している人はどれだけいるのだろうか。その事実を無視して、産めよ増やせよと言っている人が大半なのではないかと思ってしまう。
彼らが主導権を握る社会で、子どもとやっていける自信は持てるのか。
体とキャリアのリカバリーが保証されない以上、やっぱり出産している自分を想像するには至らない。

そんなことを考えながら、今度親戚にプレゼントする靴下を、親子でお揃いの柄で選んでいる。