私はいつから出産について消極的になったのだろう。

おそらく高校生くらいまでは、いつの日か母になることが当たり前だと思っていた。
日当たりのいい家に住み、大きな犬を飼い、日曜日にはクッキーを焼いてみんなで食べる。それが幸せの形であると信じ、漠然と夢見ていた。
それがどうだろう。今の私は西向きの1LDKに住み、角刈りのような豆苗を育て、たまにお菓子を焼いてはバターの量にうんざりする。
それで同僚に配ると、彼女らは口を揃えて「休日にクッキーを焼くなんて、いいお母さんになりそうだね」と言う。真に受けて喜んでいたのはいつまでだっただろう。
いつから、私は母になることを諦めたのだろう。

子どもを守る母親は生きる「卵」。そんな覚悟は私にはない

お腹の中で新しい命が作られるという神秘は、ひどく生々しい空想のようだ。妊娠経験のない私にとっては、その全てが不思議でたまらない。
年上のいとこが子どもを産んだ。会社の先輩が産休に入った。地元の友達が妊娠した。それらが現実であることも、赤ちゃんができる仕組みだって知っているはずなのに、出産は私の中で知識の枠を出られないまま、寝言のようにぷかぷかと浮かんでいる。

最後に先輩の大きなお腹を撫でさせてもらった時、私は力加減がわからないので恐る恐る手を動かして、ただ曖昧に笑いながら「すごいですね」としか言えなかった。
だって、すごい。想像もできない。自分の体の中に他の体が存在するだなんて、いったいどんな気分なのだろう?
母親は生きる卵だ。自らの肉を呈して子どもを育む殻となり、栄養と血を分け与え続け、時が来て強引に蹴破られた後も、ひび割れた体をゆりかごにして子どもを守っていく。
そんな覚悟は、私にはない。私は聖なる卵にはなれない。

自分よりも大切な存在を、自ら生み出してしまうことが怖い

もっと気楽に考えるべきだろうか。あの頃のように、ただ夢のような幸せだけを思い描いて、目を瞑って微笑みながらセックスするべき?
そんな無責任なことはできないと私は思う。そもそも私の都合で産み落とすこと自体がエゴイスティックではないかと私は思う。
けれど、そうしていつまでも出産から逃げるのは生物として破綻した行為であり、それこそ命として無責任だとも私は思う。

要するに、私は怖い。
自分よりも大切な存在を、自らの手で生み出してしまうことが怖い。
その子が生きている限り生涯を捧げてしまうことが怖いくせに、その子が私よりも早く死んでしまうことが何よりも怖い。
私は大切なものを増やしたくない。もっと身軽に生きたいし、もっと身軽に死にたい。少なくとも今はそう思うから、今の私にはやっぱり、命を産む資格はないのだと思う。

私が私として生まれることはないから、自分には正直でいたい

いつかは再び、家庭を夢見るようになるのだろうか。高校生の私から今の私に変わったように、知らないうちに私は、知らない私になっている。
未来のことはわからない。映画のような恋をするかもしれないし、天職と思える仕事に就けるかもしれないし、子どもを産めない体になるかもしれない。
誰にもわからない。正解なんてない。
けれど、私が私として生まれることはもうないのだから、せめて自分にだけは正直でありたい。
無精卵なら、無精卵で幸せになればいい。

だから私はひとりでキッチンに立つ。顔をしかめながら、ボウルの中にバターを放り込む。
大人になった私は、蛍光灯の下でも、平日でも、母親じゃなくても、美味しいクッキーは焼けるということを学んだのだ。