私には決断力というものが欠如している。
間違えるということを恐れ、決断の先にある後悔や自己嫌悪に陥るのが嫌いであるために、取捨選択をするときには悩み、エネルギーも時間も消費してしまう。
決断に慎重になる私。失敗を恐れずに挑戦できる人が羨ましい
行動するよりも頭が働いてしまって、人よりもスタートダッシュが遅い。一方、一度決断したことに関しては、自分の中で満足するまで何度失敗しても諦めたくはない。だから、決め事にはより慎重になってしまう。
ぐだぐだと考えて行動出来ない私には、失敗を恐れずに「とりあえずやってみよう!」と挑戦できる人が羨ましい存在として映っている。
色々と考えた結果、人に言われたことに賛同してしまえば、間違えはないだろうと思い込んで、人の意見にはすぐに背中を押されてしまう。自分ひとりの意見ではないと思うだけで心強く、勇気が湧いたりもする。
人は1日に最大で3万5千回もの選択をしていると言われている。
この回数を聞くと驚くが、それほど意識せずに決断することが出来ているのは、その選択が当たり前になって潜在化してしまっているためか、決断の先にある結果にそこまで関心がないためだろうか。そんな小さな選択はすぐにでも出来るのに、人生を左右するかもしれない選択はなかなか答えが出ないのである。
それらの事の大小の線引きは、いったいどこでされているのだろう。そんな線にとらわれずに選択が出来たら、もっと多くの経験が出来るのに。
流れに身を任せ、大学まで行った。唯一選択したのが部活動
自分が決断したことが正しかったか誤っていたかなんて、その時にはわからない。だからこそ、決断というものは難しい。だけど、その正誤は今をどう生きるかで決まってくる。
自分の選択によって経験は増えていくが、私の学生の頃は選択肢など増やすことなく、最初から決まっていた学区内の中学に進学し、推薦で高校に入り、さらに推薦で大学まで行ってしまった。それが自分の決めた道と言われればそうなのであるが、流れに身を任せたまま、ここまで来てしまった。
唯一、選択したことは部活動である。中学時代は友達が入ると言った吹奏楽部について行ってそのまま入部した。ピアノを習っていて楽譜が読めるからいいか、と軽いノリだったが想像以上に辛いこともあり、辞めたいと思ったことは多々あった。
でも辞めなかったのは、同級生が誰も辞めなかったからだ。そこでも他人の選択に身を委ねてしまったのだ。
高校時代は、忙しい日々を送っていないとダメになってしまう私の性格から、一番忙しいと言われる部活に入部した。これは、私より先に1人入部していたので、焦るように咄嗟に決断した。
勝手にひとりで決める決断力が私にもあったと気づいた瞬間だったが、その日から怒涛の3年間は続いた。何回泣いたことだろう。
それでも辞めなかったのは、支えてくれる人がいたし、何より自分が決めた道ということが大きかったのだろう。
そこで自分が決断したことの重要性がわかった気がする。そのときは、ただそれだけの理由だった。今後の自分がどう思うかなんてことは考えていない。
選択の正誤は、その後をどう生きるかにかかっている
辞めなくてよかったと思えたのは、それから時が経ってからだ。辞めなかったからこそ経験を堂々と語ることが出来るし、楽しかったことも嫌だったことも全部プラスの思い出として刻むことが出来た。
きっと、あのときに諦めていたら、経験したこと全てが嫌な思い出として残っていただろうと思う。
私は諦めるという決断をしたこともある。続けていれば経験として残ったものが、諦めてしまったらその経験はあまり必要としないことばかりで、あの時間は何だったのだろうとすら思った。
だけど、それを無駄にするか活かすかは、今をどう生きるかにかかってる。その経験を活かしたかったら今からでも行動を起こせばその経験は活きる。いつからだって立ち直ることは出来る気がするし、やりたいと思ったときにまたやればいい。
どんな選択だろうと「選んだ道こそ正解」と、今なら言える
私は目指した場所を1度離れたが、時間を経てその経験を無駄にはしたくないと思った。その経験を活かす方法は考えればいくらでもある。
諦めるという選択をしたことへの自己嫌悪はなかったといえば嘘になる。でも、私が生涯かけて大好きと言える場所(夢の国)に向かう電車の中でこう思った。
「諦めるという選択をしてよかったー!こんな幸せな気持ちになれるのはその選択をしたからだ!」と。なんとポジティブなんだ。
どんなにネガティブな選択だと思われたことも、今を幸せだと思うことが出来たなら、それはポジティブな選択だったと感じることが出来る。そう解釈するには、時間も必要ではあるが、その選択をしてこその今が幸せだと思うことが出来たなら、無駄なことなどないと胸を張って言えるだろう。
決断するということは自分にとって難しいことだが、何でも挑戦出来る人になりたいと思える経験ばかりしてきた。
どんな選択であろうと自分で選んだ道こそ、その時の自分が出せる精一杯で、正解なんだと、今なら言うことができる。