幼い頃から引っ込み思案。大人になった今でも変わらない
引っ込み思案な人生だった。いつも教室で、自分の机に座って図書館から借りた本を読んでいる子。眼鏡をかけている。勉強はできるけど、体育は壊滅的。クラスの輪には入ってこない。
大人になった今も、本質的に変わらない自己を持ち、日々生きている。就業した経験から大人同士のコミュニケーションを取り繕えるようになったが、まあ疲れるし向いていない。業務の報連相のために同僚に話しかけるのでさえ、一度息を吐いて丹田(たんでん)に力を込めないとできないし、飲み会という文化は「滅べ」と常に思っていた。
人生を振り返ると、自分から何かをしようと思ったことが少ない。実際に行動へ移したとなると、ほとんどない。
高校に進学したら、急に大人に近づいた気がした。それまでは徒歩通学だったのが電車に変わり、お昼ご飯も購買やコンビニで調達するようになったのが、そう感じさせたのかもしれない。
子どもだった中学生から何かが変わったような、浮ついた気持ち。多分これが原因で、私はらしくないことをした。
体育祭の係決め。普段なら絶対にしないのに手を挙げた
6月に体育祭がある学校だった。そのため入学早々、体育祭の係決めが行われた。
応援団、衣装係、小道具係。それぞれ数名ずつ。クラスメイトの名前も全員覚えられていない、関係も構築されきっていない時期にそれらを決めるのは難航した。
誰も手をあげない。司会を任された学級委員長が大変困った様子で、誰かやる人いないの、と繰り返すばかり。終わりのチャイムが鳴る時間が近づき、業を煮やした委員長は、彼と比較的関係を築けていた人を何人か、無理やり係に任命した。それを皮切りに2、3人の手が上がった。
私も便乗して、手を挙げた。いつもだったら絶対しないことなのに。そして、小道具係ならやるよ、と言った。新しい環境で何かをやってみたいという、若い心だ。しかし、一番地味そうな係を選ぶあたりが、私だなあと思う。
手を挙げた勇気が、人生を共にすることになる人との出会いに
小道具係で一緒になったクラスメイトと交際を始め、大学時代に遠距離恋愛となるも、後に結婚へ至った。
手を挙げていなかったら?
別の係を選んでいたら?
今も独身だったかもしれないし、別の人と結婚していたかもしれない。
慣れないことをして、心臓がうるさかった。顔も赤くなっていただろう。それほど自分から何かをしたい、と表現することは苦手。大人になっても。
中学生を卒業しても、まだ高校生になりきれていないような曖昧な瞬間で、それゆえにこれから無限が広がっているように感じられたから。奇跡のような狭間にいたから、私は手を挙げられた。
それがもう、12年前の出来事だ。すなわち、夫との付き合いもそれだけになる。お互いの努力と誠実さで、良い関係を保っている、と勝手に思っている。
私は人生に彼がいて良かったと心底感じているし、これからも一緒に過ごしたい。彼も同じように考えていると信じているのは、自惚れではないと言えるだけの月日の積み重ねがあるからだ。
あの瞬間に立ちすくまず踏み出せたから、今の自分がある。これ以上ない人生へ向かえた。過去の自分にも、感謝している。