突然だが、私はおじさんが大好きだ。特に渋くてダンディで落ち着いている、いわゆる「いぶし銀」と形容される人がたまらなく好きだ。
高校時代に小汚くも色気のあるおじさん(以下、贔屓目に似ている俳優にちなんでOと呼ぶ)に初恋を奪われて以来、どうしてもその年代の男性を目で追ってしまう。Oと過ごした数年の間で、心身が「おじさん」を求めるようになってしまった。
しかし、私の「おじさん」を求める感情はどこから来ているのだろうか。
恋心?性欲?それとも……?
血と涙に染まる「イケおじ」に、なんとも言えない感情が
高校生の時に、私はとある映画を鑑賞した。その映画には、スーツ姿の壮年・中年の俳優さんがたくさん出演していた。
スタイリッシュに着こなす俳優さん、オシャレに着崩す俳優さん、皆が自分に似合う装いをしている。長く生きてきた証であろうシワ、武骨な大きな手、酸いも甘いも噛み分けた哀愁の漂う表情。
多分、世の中のおじさん好きにとっては目の保養だろう。この時の私も、きっとうっとりした目で画面を見つめていただろう。そしてその世にいう「イケおじ」たちは、あれよあれよという間に血と涙に染まった。
その映画のほとんどの映像は、拷問と殺人の場面だ。叫び声やうめき声、痛がる表情、傷だらけになっていく顔や体。そして、惨めに呆気なく終わる生命。画面の中のおじさんたちは、悲惨な最期を遂げたり、苦悩を抱えた表情をしたりしていく。
この時、私は自分の頬がだんだん熱くなっていったことに気づいた。動悸がして体中がムズムズしてきた。ときめきと愉しみが混じったなんとも言えない感情が私の中を支配した。気がつけば、彼らが苦しむ場面を巻き戻して何度も繰り返し見続けていた。
血と暴力に塗れた映画を見終わり、今度は別の映画を鑑賞した。暴力シーンはそこまでないものの、おじさんが手のひらで転がされて人生を弄ばれる姿が、ペットのようで愛らしいと感じた。ミステリアスで渋いおじさんが惨めに落ちぶれていく姿を、これでもかと摂取し続けた。
映画を見た後、私はふと無精髭を引っ張りたくなった
映画を見続けて少し疲れたなと感じた途端、一気に現実に引き戻された。おじさんが心身ともに苦しめられる場面に興奮している自分を客観視してしまった。まるで、私は犯罪者のようではないか。
映画を見終わった数日後、私はふとOの無精髭を引っ張りたくなった。
いつものようにそばに座って、口元に手を伸ばす。Oは私の手が届く前に手で顔をガードして、軽く頭を小突いた。
私の思惑を見抜いたのだろうか。そもそも、私はなぜ髭をひっぱりたくなったのか。
英和辞典を引いていく中で、たまたまサディズムという言葉を見つけた時、自身のかすかな嗜虐性を明確に自覚した。そして自己嫌悪に陥った。
どうして私はこういう風にしか、好きな人と接すること、愛することができないのか。
でも明らかにそのような状況に興奮している自分がいるのだ。それは否定できない。
それでは、どうして対象がおじさんなんだろうか。嗜虐性という言葉だけでは到底説明がつかなかった。
性的嗜好を説明する上で、しっくりくる言葉は「無償の愛」
Oと離れ離れになって何年も経った大学のある日。私は、自身の性的嗜好を説明する上で都合が良くて、しっくりくる言葉を知った。
「無償の愛」である。その言葉を使って自己分析をしていった。
決して愛のある家庭で育たなかった自分はおそらく、無意識的に愛を求めていたのだろう。そして、高校時代にOと出会い、まるで一人娘のようにいっぱい可愛がってもらった経験を積み重ねた。私は知らない間にOに、父性、すなわち無償の愛を感じていた。
しかし、私はその愛が不変かどうかが不安になった。私がどんなに相手を傷つけても苦しめても、変わらず受け入れてそばに居てもらえる愛情なのかどうか。そしてその疑いは自身にも及び、疑いきって思い上がった結果、相手がどんなに惨めな姿になっても、私だけが愛してあげるといったエゴが膨れ上がった。
籠の中でもいい、スノードームの中でもいい、離れて欲しくない、とにかく自分の手元に置いておきたかった。そして、知らず知らずのうちに画面の中の中年俳優をOに重ね合わせて鑑賞していた。
私は無償の愛に甘えたかったし、私は無償の愛を与えられると思いたかったのだ。
私の愛は今、安心して恋人に与えることができている
私の歪みきった心は、Oからの懸命な愛情と、周囲の人々との信頼関係で徐々に矯正されていった。特にOとの時間で、私は喜びや楽しみの共有を知った。
相手の喜ぶ顔の方が嬉しいし、相手を喜ばせることの方が相手は逃げないし、まともに見えるし、得が多いことも知り得てきた。
無論、嗜虐心も決してない訳ではない。でも、自分の欲望を満たしたら、きっと悲しむ人や、悲しむことが出来なくなる人が出て来てしまう。現に、世の中にはパートナーからの暴力で苦しみ傷ついている人がたくさんいるのだから。世間的にも良くない。自分のわがままな欲望だけで、積み上げてきたものがおじゃんになったら困る。
嗜虐心は、心の海の底に浮かないようにOからもらってきた愛を錘にして鍵をかけて、社会性という名の箱の中にしまっておこう。
私がおじさん好きなのは変わらない。Oに大事にされた経験が基盤となっているためか、もはや彫り込まれている。
でも今は、笑顔で楽しそうにしているおじさんの方がずっと好きだ。今付き合っている大事な大事な恋人は特にそうだ。自分のせいで悲しい顔や辛そうな顔は決して見たくない。
やや不完全なものの、私は社会的に良い方向に変化することが出来た。私が得た無償の愛は、私が誰かを喜ばせる原動力になっていった。現に、私の愛は安心して恋人に与えることができている。
私のおじさん好きのルーツは、無償の愛からだった。