10代の頃には分からなかった、1日の大切さ。
“26歳、OL”として生きている私にとって、1日をどう過ごすかということは、私の人生において、とても重要なのだ。だから、1日中何もしないで過ごした日の夜は、「今日、私は私の為に何もしなかった」と、自分に対する絶望と呆れ、後悔に苛まれ眠れなくなってしまう。
社会に出てリアリストになった一方、ロマンチストの自分もいる
社会に出て5年目の春。街中で、パリッとしたスーツに身を包む新社会人らしき人達を目で追いながら、代わり映えのしない春が来た、と思うようになったのは何年目からだろうか。
別に楽しくないというわけではない。大変なことは沢山あるけど、それなりに仕事はできている。休日は、大好きなランニングコースで適度に運動してリフレッシュ、旅行がてら推しのイベントへ遠征して全力で楽しんでいる。
それから、家族や友達と過ごす時間は何ものにも代えがたい尊い時間。私の毎日は好きなものと人で溢れている。
でも、ふと「私の人生、今のままで良いんだっけ」と思う瞬間が年々増え、目がそらせなくなってきた。停滞気味の私の人生。
年齢を重ねて、以前より世界の解像度がぐっと上がった。楽しいことも悲しいことも沢山経験して、見える世界は複雑になり、私はリアリストになった。
「私の人生こんなもんでしょ」と、どこか諦めに近いような気持ちを持つようになった。数か月後もどうせ同じ場所で同じようなことをして、同じような楽しみをまた味わう。
だけど、その隣で「私の人生こんなもんじゃないでしょ」と叫んでいるロマンチストな自分がいる。数か月先の道が見通せてしまう今の私の人生は、ぬるま湯につかっているような安心感を得られる代わりに、刺激や希望がない。
本当は、今の生活を手放して、刺激的で希望にあふれた新しい道に進みたい。今感じている安心感は、実は少しだけつまらない。
「たまには息抜きしても」という言葉は使い切った
自分の人生を変える為に、1日1日をもっと大切に使おうと心がけている。
つまらないと感じている生活から抜け出して、今よりもっと満たされた状態で過ごす為にできること。
それが、転職活動なのか、今の仕事で生かせる資格の勉強なのか、それとももっと違う、自分の本当にやりたいことを見つける体験か。別に何だっていい。
「自分の成長の為にしている」と思えることを、もっともっとすべきなのだ、私は。それが、他人から見たらすごく小さな変化だとしても、今日という日を少しでも自分の為に使えたのなら、それは私にとって良い日になる。明日も頑張ろうと思いながら、満足して眠りにつくことが出来る。
今日もまた、「今日は自分の為になることをしよう」と決めた休日。
そう決めたのに、何もしなかった。
携帯というのは毒だ。SNSで似たような動画や呟きを何の感情もなくただ眺め、トレーニング関連のインフルエンサー達の動画を見て、疑似的な達成感に浸る。
「この動画を見たらランニングに行く準備をしよう」「お昼を食べたら勉強しよう」「やっぱりまずは洗濯しよう……BGMにこの動画を流しておこう」と、何かと理由をつけては部屋の中でだらだらと過ごし、1時間、また1時間……と延びていく。
はっと気づけば、もう窓の外は真っ暗。そこでやっと冷静な私に戻り、非生産的な時間が1日を占めた事に気づきぞっとする。今日の私の悪しき過ごし方を振り返り、絶望する。刹那的な快感の為に将来の幸せを削ったのだ。
「たまには息抜きしてもいいんじゃない?」という言葉は、もう使い切った。今の私には、息抜きする日なんてないに等しい。そんな言葉はずっと頑張っている人が使えるもので、楽しみたいことも楽しんで、息抜きもしようなんて。笑えないけど、笑える。
何かしないと。でも、明日の仕事のために眠らないといけない
10代、学生の頃には分からなかった。1日をどう過ごすか、何をして過ごすことが自分にとって良いことなのか。
今日が楽しければ良かった頃、将来の夢はね……と簡単にキラキラした理想を語ることが出来たあの頃より世界の輪郭がはっきり見える今思うことは、現実は意外と厳しいってこと。自分の理想を叶えるには、今立っている場所がどこなのか、そのために何をすべきか知らなきゃいけない。それに気づいた時、キラキラした理想の中の自分が遠くなった。
幻想から目が覚める、休日の夜。
このまま寝たら本当に何もしていない。何かしないと、と今日という日を引き延ばしてみるけれど、26歳OLの私は、明日の仕事の為に寝なければいけない。
明日こそ、私の為に何かできるだろうかと思いながら、眠れない夜を過ごす。