同性愛が描かれていることで上映禁止になる国がある

映画を観るのが好きだ。
物心ついた時からディズニーやピクサー映画、ハリーポッターシリーズ。数えればきりがないほど沢山の作品が私の人生に彩りを添えてくれてきた。大人になった今も、主人と一緒に沢山の映画を観てきた。

最近はSNSで前情報を調べることが多いのだけれど、洋画、特にマーベルやディズニーなど、沢山の国で公開される映画に関するニュースで、よく目につくものがある。それは作中に同性愛描写があるために、上映を禁止する国が少なからずあるということ。

直近だと、マーベルのドクター・ストレンジMoMやエターナルズ、ピクサーの2分の1の魔法など実写、アニメ問わず沢山の作品が槍玉に挙げられている。上映を禁止しているのは、同性愛が違法とされている湾岸諸国や反同性愛の風潮が強いロシアや中国だった。
きっと昔からそういった規制はあっただろうけれど、言われてみるとそういう報道を見た記憶もないし、そこまで取り上げられていた印象もない。
おそらく昨今のLGBTQに関する理解を求める運動や、報道が盛んになったことも影響しているのだろう。何より、沢山の作品でLGBTQのキャラクターが扱われるようになってきたことは言わずもがなだ。

同性愛者の家族のシーンで、私が泣けた理由を考えると

今まで、さほどそういった報道には関心がなかった。何も知らなかったからだ。けれど、ここ数年の内にそういった内容のニュースを見ると、無意識に眉間に皺が寄っているのに気がついた。
何と説明すればいいのか、理解できないと不思議と憐れみが混じった、変な感情に息が詰まりそうになる。

そもそもだ。そもそも、同性愛が違法ということ自体理解できない。感情を法律で縛ることに疑問を抱かないことが、ただただ不思議で仕方ない。LGBTQのキャラクターがいて、そういった描写があることによって、何の問題があるのかが理解できない。自分に何の不利益もないのに、なぜそんな風に病気のように扱えるのかが分からない。自分がたまたま異性愛者だったからって、マイノリティを排除していい理由なんてない。

そして何より。先程挙げた映画での同性愛描写は、決しておもしろおかしく馬鹿にしたような表現ではなく、幸せな家族の両親が2人とも母親だったり父親だったりするだけだ。その光景が、作中では当たり前のこととして描かれている。
私は初めてそのシーンを観たとき、御涙頂戴の場面でもなんでもないのに何故だか泣けた。ただただ、幸せな家族のワンシーンだったから。
でもそこで泣いてしまうというのも、まだまだ自分の中では奇跡のシーンとして捉えてしまっている気がして複雑だった。当たり前にその場面を享受できるようになってこそ、きっと意味のあるシーンだと思うから。

「当たり前」になり、ニュースにならなくなる日が楽しみだ

ニュースの記事の終わりに、映画を作ったスタジオは同性愛描写のカットを拒否し、それならば上映しないという選択をしたと書かれていた。
私はそれを読んで心底安心した。だって、そこまで長くないシーンをカットして上映すれば大きな売上になっただろうことは明白だ。けれど彼らはキャラクター、ひいてはLGBTQの人々を尊重し映画の品位も守った。きっと沢山の人を勇気づける一歩になったはず。
私はまだまだ勉強不足で、LGBTQについて上辺しか知らないだろう。でも、やらない善よりやる偽善とはよく言ったもの、今からでも遅くない。無知は罪なりとソクラテスも言っていた。愛に性別も性的嗜好も関係ないもの。

赤レンジャーが女の子でも、男の子がプリキュアでも、スーパーヒーローがゲイでもいい。自分を持っている人はいつの時代も魅力的だ。
ああ、そうか。変な感情になる理由がもう一つあった。
かつて私を愛していると言ってくれた彼女たちの真摯な想いを、踏みにじられている気がするからだ。そんな風な扱いを、私は絶対に許したくない。

いつか、映画のことがニュースにもならない日がくるだろうか。
当たり前すぎて、報道にもならないからと。
私は今から楽しみだ。誰もが手の加えられていない映画を、スクリーンの前で等しく楽しめる日がくるその時が。