いつの間にか、人生へのやる気がない人間になってしまった。
幼い頃は、歴史上の偉人に憧れ、立身出世を夢見て人生を頑張ろうとしていた。いつか立派になって幸せに暮らすんだと意気込んでいた。
そんな幼い時代から経つこと20年弱、20代中頃の私の口癖は「だってぇ、もし明日家に隕石落ちてきて私が死んだら、全部無駄じゃないですかぁ~」である。

「隕石理論」を使い始めたのは、小さな隕石に見舞われてきたから

私が気に入って使っているこの「隕石理論」。一言で言うと、明日死ぬかもしれないんだしどんなに将来のために努力しても無駄じゃないですか?という話だ。
「隕石」の不可抗力な感じや、わけもわからないまま即死させてくれそうな勢いの良さが気に入っている。ある日、自宅に隕石がチュドーンと落ちてくる……という図も、現実味がなくコミカルに思えてくる。

もちろん私はNASAや科学技術を信頼しているから、本当に隕石が落ちてくるなんて思っていない。ただ、通り魔だったり災害だったり、隕石のような勢いと不可抗力さ加減をもって急に人生を終わらせられることだってあり得るよね、という話だ。

立身出世を夢見ていた子供が、なぜこうも極端な「隕石理論」に行きついたのか。それは、これまでの人生で数々の「隕石が落ちてくるような出来事」、すなわち「小さな隕石」に見舞われてきたからである。

不可抗力な出来事で絶たれた未来。まるで隕石が落ちてきたよう

ある日急にストーカーが現れて引っ越しを余儀なくされ、ある日急に母が動けなくなって生活が一変し、ある日急に実家がなくなって帰る場所を失い……といった具合だ。
自分に責任のない不可抗力な出来事により、想像していた未来が絶たれる。まさに隕石みたいだった。そんな数々の「小さな隕石」をくらって死んだように生きていたこともあった。だが、実際の隕石とは違って死にはしなかったので、生きなくてはならなかった。
そうして、私は生きるために「涙の数だけ強く」なったのだ。「アスファルトに咲く」どころかアスファルトを裂く花のように。

そうして強くなった結果、得たものが人生への諦めである。
どんなに将来のために頑張っていても、大なり小なり隕石が落ちてきて、うまくいかなくなることがある。だったら、将来のため、より良い人生のためなんて考えないほうが良いのでは?と、人生へのやる気を完全になくしてしまった。

しかし、やる気がないからといって、怠惰な生活をしているわけではない。むしろ日々の密度は高くなった。
将来のために頑張っても、ある日急にすべてが無駄になるかもしれない。ならば、先のことは気にせずに今を充実させようと思った。

充実した人生でも、また小さな隕石に全て奪われるのが怖い

皮肉なことに、「小さな隕石」の数々と人生へのやる気のなさが、日々の充実を生んだ。たとえ明日何かが起こっても、明日死んだとしても、後悔しないようにと毎日を生きた。
行きたいところに旅に出たり、やってみたかったダンスに挑戦したり……自分の興味や関心に忠実に過ごす時間はとても輝いていた。

もちろん、娯楽ばかりではない。仕事も毎日95%以上の力を出して取り組み、家族や同僚にも笑顔で明るく接した。そう刹那主義的に、でも一生懸命に生きていたら、私を取り巻く環境も良くなった。自分の好きなこと・得意なことを活かせる仕事に就くことができて、趣味が合う友人もたくさんできた。

しかし、人生が充実すればするほど私は怖くなる。
もしまたストーカーが現れて、この場所を去らないといけなくなったら?もしまた家庭が急変して、今の立場を捨てないといけなくなったら?
続くと信じていた未来を強制的に捻じ曲げられた経験が多かったからこそ、将来へ期待を持つことができなくなってしまった。
人生にやる気を出すことだってできない。未来への希望を持った瞬間に、また「小さな隕石」が落ちてきて、生きながらにしてすべてを奪われるのが怖いのだ。日々がいくら楽しかろうが、人生そのものにやる気が持てないのだから、心はどこか虚無であった。

だから私は、充実した日々の隙間でふと思ってしまう。
「いつか本当に隕石が落ちてきて、一瞬ですべてを終わらせてくれないかな」と。