やる気が出ない時は、恐らくもう脳が白旗を振っているということだ。

白旗を振っているのにまだ働かせるというのは、なんともブラックな香りがする。24時間働けますかの時代は、とうの昔に終わっているのだ。
それに、やる気が出ない時に無理して働いていても、結局いいものは何一つ生まれない、惰性で取り組んだ仕事はいつだってあとで見返してみると粗ばかりで、どうせやり直すはめになるのだ。やる気なく、ヘロヘロとエナジードリンク吸いながらこめかみ押さえて息絶え絶えにやる時間は無駄ということである。それならばいっそのこと思い切り休んだほうがいい。
学生時代は思い切り部活や勉学に励み、そして大人になれば思い切り仕事や目の前の取り組むべきことに取り組んで生きている。
なにかを成し遂げるということは、目に見えて結果がわかる。
トロフィー、メダル、テストの点数、営業成績、だから一生懸命取り組むし、なにより達成感というものもある。

けれども私たちはなんの達成感もないけれど、休むということにももっと全力で取り組むべきではないかと思う。
全力というとなんだか暑苦しい、「熱血」を醸し出す単語だけれど、決して燃え盛る根性論的ものではなくって、肩の力を抜いて、肩書は一旦脱ぎ捨てて、老若男女ゆるく。上手に、そして胸をはってなまけるということだ。

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ドラえもんののび太くんとか、ちびまる子ちゃんを思い浮かべるといい。あの畳の上で掌で顔半分を支えて寝ころび、せんべいでもぼりぼり齧りながら漫画を読むかテレビを見るかをして、お尻をぽりぽりかくようなあのかんじだ。

なまける、とか、だらけるというと、どうしてもいけないことのように思えるから、みんななまけたり、だらけたり、したがらないけれど、ずっと緊張の糸が張り詰めたままだと生きていけない。さぼることや、自分のやるべきことを投げ出してしまうことはよくないが、やるべき仕事に取り組んだあとには、仕事に取り組んだのと同じ位しっかりと休まないと人は死ぬ……。
ちょっと端的だけれど、「過労死」という日本語がそのまま「karoushi」として海外でも伝わるようになってる現代人こそ、仕事に取り組むように休むことにも取り組まなくちゃ駄目だ。

私がかつて会社員をしていた会社は、休むことを申し訳ないといった風潮があった。保険の営業の仕事である。
サービス残業や出勤は当たり前で、何時間働けているか、どれ位身を粉にしているかを競っている空気があり、営業成績トツプの人は熱があっても熱さましを飲んで営業に、営業成績がそこそこの人は骨折をしても松葉杖で営業に出ていた。
当然、私は営業成績がよくはなかった。

だが、真面目には取り組んでいた。けれどいくら真面目にやっていても営業成績がすべての世界では、「これだけサービス残業とサービス出勤をしました」といっても言い訳として片付けられてしまい、「でも営業成績で来てないじゃん」と言われればそれまでなのだ。
営業成績のできていない人が皆、土曜も日曜も、保育園がやっていないからとオフィスに子供を連れてきてまで皆が働いている世界では、友達と遊んだりゆっくりしたいから休みたいとは言えなかった。

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ある時のこと、一度契約を結んだものの、持病がある関係で審査が通らず、契約がダメになってしまったお客様がいた。つまりは営業成績も水の泡ということ。
頑張っていたからこそ、ショックの大きかった私は、周りから「落ち込んでいないで代わりの契約を探して」と言われたが、正直心が折れていた。
やる気という木材と火種があれば頑張る気持ちはいくらでも燃えるけれど、でも火は延々に燃えるわけではない。風が吹けば、雨が降れば、消える。
そして一度失ったやる気は、そう簡単には再び点火しない。性格や体質にもよるけれど、私はそうだ。燃えカスや灰を集めてしばしぼんやりしてしまう。

代わりになる契約を探している振りをして出た営業中、ゲームの主人公にでもなったみたいに、やる気回復の呪文を探した。スイーツでもいい、泣ける映画でもいい、猫カフェで子猫の肉球に触れるでもいい……。
町を彷徨う私の視界に飛び込んできたのは、マッサージのお店の看板だった。
マッサージは、整骨院位しか行ったことがないものの、今の自分に必要なものはなんなのかを自問したときにこれだと思った。

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そのマッサージはアーユルヴェーダという、スリランカのマッサージで、本場ではマッサージというよりも治療的な面もあるものだった。
疲れてはいるけれど、営業成績もろくにあげられていない自分が休んでもいいものなのだろうか?と思った。自分の健康を削ってでも働くことが正しいと刷り込まれた頭では、休むというのが大罪のように思えた。
そしてお値段はそこそこした。けれども、今の自分には活力というものがまるでない。飢え乾いている。ここらで一つ潤さねばならんと、足を踏み込んだ。

アーユルヴェーダではまず、自分の体質を事細かにカウンセリングされる。「子供のころの体系は?」とか「どういう性格か?」とかまるで心理テストのよう。
けれどもその一問一答で導きだされるのは「火」「水」「風」という……まるでポケモンのようだが、自分の性質である。
例えば「火」の人は筋肉質で、少しせっかちだったり、「水」の人はぽっちゃりしていて穏やかだったりと、その診断に合わせ何十種類もあるオイルから自分に相性がいいものを使う。その塗るだけでも効果があるオイルで受けるマッサージは、とても心地よかった。

半裸になり、ベッドに横たわるまで罪人の気分は続いていたけれど、一度薬草のようなツンとした香りの私の体質に合っているオイルが皮膚にたらされ、施術者の手がぐっとこの皮膚の下に通るリンパを押し流すと、僅か数秒で罪人気分はどこかにいってしまった。
流しているのはリンパだけれど、心の滞りも流してくれている、ほぐしているのは体のこりだけれど、休むことはいけないという罪の意識さえも、そうではないよと解してくれているみたいだった。

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施術は30分だったが、終わるころに生まれ変わったかのような気分にすらなっていた。
30分足らず前までは、仕事のことを考えようにも思考回路が考えることを拒んでいるようにぼんやりとかすみがかっていたけれど、今ではしっかりと心と脳の回路が繋がったような気持ち、頑張ろうという気力なく砂漠と化していた脳内にどっと水脈が見つかり満たしているような気分だった。
「忍足さんの体ね、まるで石の板が入っているみたいだったけれど解して今、砂利、くらいにはなったけれどでもまだ硬いからまたきてね」
にこり、と店員さんは笑って見送った。
なるほど、石の板か。確かに体の一部が石の板と化していたら正常な判断はできなくなる。でもいま私は砂利なのか。砂利ならば石の板ほど固まっていないからもうひと頑張りできるかもしれない。
再びやる気の炎は灯り、パンプスの音をカツカツ響かせて担当地域への営業へと駆け始めた。

海外では、楽しく休む為に仕事をするという価値観がある位、休むことを大切にしている。
けれども日本ではまだまだ、休むことに対して罪悪感めいたものを感じずにいられないのも事実だ。
休む人はやる気がない。そういうととてもズボラな人と思われてしまうかもしれない。「休む」というとさぼっている悪いことのように感じてしまうかもしれないけれど、休むことはこれから先も真っすぐ落ちずに生きていく為に必要な活力だ。
そもそも週5日も働いて2日休むという社会人のサイクルが、どうなんだとも思う。
働いたぶんだけ休むべきだから、1日働いて1日休むくらいのペースにしたらいいのに、そんなことをいうとどうせまた「努力してこそ」「苦しんでこそ」だという根性論に突かれるかもしれないが、努力して、苦しんでなにになるのか。
休み返上、サービス残業して頑張っている自分がすき?すてき?
そんなのただのナルシシズムに過ぎないじゃないか。
頑張って、頑張って、頑張って、それで心を壊して、命まで奪われている人がいる現状。
根性論こそすべてではない。そんなこといってられない。
休まず頑張るというマゾヒズムな時代はそろそろ終わりにしよう。
全ての人に休むことを否定しないでほしいし、休む時に「休むのはいけないことですか?」とびくびくしなくていいし、休む人に対して白い目を向けるのではなく「ゆっくり休んでね」と言ってくれる世界になれ。