少し前まで、「だらだら何もせずに過ごす休日」が許せなかった。
「今日は何もしなかった」と感じて一日を終えることがあると、自分がすごく無価値に感じられて悲しくなってしまう。だから、生き急ぐように休みの日の予定を日々探し求めていた。

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コロナ禍で友達と会うことが難しくなった時期も、買い物や散髪など予定を作っては必ず外出していたし、どうしても予定ができない時は、散歩と称してあてもなく知らない土地を歩き回った。
もちろん、仕事で疲れて何もする気が起きない日も、時にはあった。それでも、「何もしないことへの焦り」がやる気のなさを上回り、私は気持ちを奮い立たせて外へ出るのだった。

そんなふうに休日も何かと忙しくしていたので、家でゆっくりと身体や心を休めるということをあまりしてこなかった。楽しく気持ちをリフレッシュすることはできても、ゆったりと心身を休めるということができていなかったので、疲れが貯まる一方だったと、今では分かる。それでいつも余裕がなく、仕事でも些細なことで悩んだり気を病んだりしてしまっていた。

そんな私だったが去年の秋頃から、家でゆっくり過ごす休日というのを楽しめるようになった。
家でごろごろしていたら一日が過ぎてしまい、しかもそんな一日の過ごし方を自分で肯定できる。以前の私には想像もつかない変化だ。
この変化をもたらしたのは、猫である。

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2021年9月、マンチカンの子猫を家にお迎えした。長足マンチカンで模様はシルバータビー。スマートな顔だちではないので、サバトラと言ったほうがしっくりくるかもしれない。
現在生後10ヶ月で、まだ成猫ではないはずが、もうマンチカンの適正体重を超えてしまった少しぽっちゃりのふてぶてしい猫だ。
初めて見たときから、これはねこきちという感じだなぁと思って、「ねこきち」と名付けた。
このねこきちがとにかく愛しくて可愛くて、一緒にいるだけで何もしなくても休日が終わってしまうのである。しかも、「何もしなかった」という虚しさも自己嫌悪も生まれることなく、とても満足度の高い休日が過ごせるのだ。
ねこは本当にすごい。

朝、私が目を覚ますと、「起きたか」とでも言うように枕元にのそのそとねこきちがやってくる。ねこきちは目を細めながら私の手や顔に何度か頭をこすりつけると、私の腕に寄りかかるようにころんと横になる。仕方がないので猫を抱いて、少しだけ二度寝をする。
ねこは、少し横になって満足すると「ん」と声を出しながら立ち上がり、布団から降りて後ろ足で耳の後ろをかいたり、毛づくろいをしたりし始める。そこで私も起き出して、身支度を済ませる。
コンタクトなど開けていると、音を聞きつけて「おいしいものですか?」とねこきちがやってくるので、「これは食べられないよ」と説明しながら化粧をする。
猫の餌は1日2回、昼は大体仕事をしているので、給餌器から自動で出るようになっている。「ねこのえさー♪」という私の声が給餌器から流れ、えさが出てくる。ねこきちは合図の声が聞こえると給餌器に駆けつけて待機し、餌が出てくると夢中で食べ始める。
食べ終えても足りないときは給餌器の奥に手をつっこんで、ちょいちょい、とつついて餌を出して盗み食いをする。おやつをあげると、ふがふがと鼻息荒くたいらげ、もうないのかと物欲しげに見上げてくる。

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昼間は窓際かキャットタワーのてっぺんか、私の布団の上でぐうぐう寝ている。丸まっているときもあれば、お腹を見せて伸び伸びと寝ていることもある。撫でてやると、うにゃんと手を伸ばして気持ちよさそうに伸びをする。「くぅ、くぅ」と寝息が聞こえるので見てみると、しっかり目を開けて座っていたりする。
時々抱き上げて窓を開けて外を見せてやる。野良猫がたくさんいる地域なので、時々外の猫にねこきちを見せて挨拶もする。野良猫には、ねこきちからみて仲良くなれそうなものと怖いものがいるらしい。にゃあにゃあと挨拶を交わすときもあれば、私の腕の中で相手をにらみながらうなり始める時もある。
また、ねこきちが特に苦手にしているのが、手押し車を押して歩くお婆さんだ。道を眺めていてお婆さんが通りかかると、文字通りしっぽを巻いて慌てて私の腕から飛び降り、部屋の隅の方へ逃げてしまう。

こんなふうに、ねこきちはとてつもなく可愛いだけでなく少し不思議な生き物なので、見ていて飽きない。ねこきちを見たり触ったりしていると、あっという間に一日が過ぎてしまう。
そして、「心の休まる良い休日だったなぁ」と思って幸せに一日を終えることができる。
やる気の出ないときは無理をせずにゆっくり家で過ごすこと。その素晴らしさを教えてくれたねこきちに、私はとても感謝している。