仕事のブレイクタイム。新宿区と渋谷区の境目にあるカフェで、1番小さいサイズのホットのカフェラテを飲みながら、いよいよ来月に迫ったクリニックへの通院について、1人ぼうっと考えている。1人掛けの窓際の席で、両隣の男女はそれぞれノートパソコンを叩いている。
私が政治に求めることは、ただひとつ。
たくさんの選択肢の中からそれぞれが生き方を自由に選び、そしてその生き方が尊重される世界の実現だ。

私と夫の間には子どもがいない。それが何故なのか分からないので、来月ついに不妊治療専門のクリニックの門を叩こうとしている。でも今日も、私は心の中で答えのない問答を続けている。

「お前は本当に子どもがほしいのか?」と。

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私には愛する夫がいる。大切な大切な愛犬がいる。そこそこ楽しい仕事がある。熱中している趣味がある。
帰るとほっとできる地元がある。あの頃と同じように笑い合える友人がいる。好きなものを食べて、時々旅行に行けるくらいのお金がある。
今がとても幸せで、満ち足りているのだ。子どもはいないけれど……。

十代の頃から、一番の将来の夢は母親になることではなかった。社会人になってからは仕事が心底楽しくて、自分が母親になるということなんて微塵も頭になかった。
それでもここのところ、母と電話をすると私の心はチクチクと痛む。自分の生き方が間違ってたのかもしれないと、何故だか分からないけれど焦る。
母は電話をかけると決まっていつも「でも、あんたんとこは犬を可愛がってんねんもんな」と言う。
職場の誰々さんとこの誰々ちゃんは最近結婚して……「でも、あんたんとこは犬を可愛がってんねんもんな」。
中学の同級生の何々ちゃんは2人目生まれてんて、「でも、あんたんとこは犬を可愛がってんねんもんな」。
お母さんがあんたの歳の頃は……「あ、でも、あんたんとこは犬を可愛がってんねんもんな」。

お母さん、私も結婚してるよ。みんなに自慢できる素敵な人と結婚したよ。
お母さん、私1人目もいないけど、安定した仕事があって、誰にも頼らずに頑張ってるよ。
お母さん、私の歳にはもう3人の子どものお母さんだったんだもんね。でも私だって子どもがほしくないわけではないんだよ。母親になることが一番の将来の夢じゃなかったから、後回しにしてしまってごめんね。
お母さんの理想通りじゃなくて、ごめんね……。

母は、直接的に「子どもはまだなのか?」とは聞いてこない。それが押し付けだと分かっているのだと思う。でも、針でチクチク刺されるくらいなら、いっそのこともうナイフで突き刺してほしい。そしたら母を憎めるのに。
そして母も、私と電話で話す度に、こんな風に感じているのかもしれない。

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きっと、生き方の違いで悩んだり、苦しい思いをしている人は私だけではないと思う。
誰かの「普通」の枠が自分に当てはまるとは限らない。逆に、自分の「普通」の枠が誰かの「普通」だとも限らない。そして、それぞれの「普通」の枠は尊重し合うべきものなのだ。
忘れがちだけど、私たちの誰もがそれを肝に銘じておかないといけないのだと、そう私は考えている。

それでも自分の「普通」が脅かされそうになるとき、相手の「普通」を理解し難いとき、私は、私個人のその恐怖や苦しみを、世の中の風潮や慣習のせいにして、目を瞑ってしまいそうになる。
だから、その風潮や、人々の当たり前を政治の力で能動的に変えたいのだ。

慣習。文化。時代の風潮。
目に見えないそれらの「枠」を作るのではなくて、十人十色の様々な「枠」を認めてお互いに尊重し合う社会を作るための、生き方やジェンダーなどについての学校での学習は、十分なのだろうか?社会人への学びは?世代間のギャップを埋めるためには一体どうしたら?参政権のあるこの日本で、29歳の私に出来ることは、きっと沢山ある。
この先、私に子どもが出来て母親になる日が来たとしても、そして子どもが出来ず、夫婦2人で生きていくことになったとしても、今日のこの思いはずっと忘れずにいたいと思う。

両隣の男女は、ノートパソコンをしまって帰り支度を始めている。私のブレイクタイムももうすぐ終わる。会社に戻る準備をしながら、小さなカフェの1人掛けの窓際の席で、私は1人、こんなことを考えている。