さっきまで前向きでルンルンだった気持ちが、一瞬にして奪われることが、時々ある。
きっかけは些細なこと。些細すぎてきっかけになるとも思っていなかったから、その分痛手は大きい。
最近の場合は、帰りにふらっと寄った駅中の本屋の立ち読みだった。

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気になっていた作品を物色し、最初はほくほくしていたのに、ある本を手にして、見事に打撃をくらったのだ。
それは、色々な分野で活躍している女性に、27歳だった頃のことをインタビューしている本だった。パラパラと読み、とある有名劇団員の方のインタビューが私の目にとまった。私は彼女のことを知っていたし、私自身舞台関係の場に身を置いているので、自然に読んでしまった。
そこには、彼女の若い頃の壮絶な舞台稽古のことが書かれていた。人生であれほど罵倒されたことはなかったこと、夜中まで及ぶ毎日の稽古でふらふらだったこと、その分先輩方が守ってくれたこと、先生の厳しさは愛情から来ていると、それでも理解したこと、そしてそれら全ての経験が今の自分を作り上げてくれたこと……。
読むそばからどんどん息苦しくなって、私はそっと本を閉じてその場を後にした。

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帰りながら、「私は舞台に向いていない」という声が何度も何度も頭の中で反響していた。せっかく、毎日のことを少しずつがんばろうと、やる気が出てきたところだったのに。
私はある伝統芸能の奏者の端くれで、その専門学校に通っている身である。有名劇団員の方とはかなり系統が違う舞台ではあるが、「舞台人たるもの、こう在るべき!」という自信と経験を目の前に、自分のやる気がしょぼしょぼとしおれていくのがわかった。
私には、あそこまでの情熱はない。毎日の課題をギリギリこなしているだけ。他の怖い先生に怒鳴られたことはあるが、私の直属の師匠は穏やかな方で、ものすごく罵倒されたりといったことはない。
それに、伝統芸能という閉鎖的で、死ぬまで舞台に立つ人が多い現場のせいか、長い目で見てもらえている。
私は続けるかやめるか、迷いながらなあなあで専門学校に在籍し続け、最終学年の6年生まで来てしまったのだ。
途中で学校をやめると、奨学金の一括返済義務があるので、卒業するということはもう心に決めている。だからといって、この先ずっとこの仕事を続けるのか、覚悟は何もできていない。やめるにしても、今までお世話になりすぎて親戚のような関係になってきた先生や先輩方にそれを伝えられるのか、自信もない。
もう、腹を括って、厳しい舞台人としての生活を築いていった方がいいのだろうか。
……考えただけでゾッとした。インタビューの方と同じような厳しい稽古をしたら、私の心はプレッシャーと恐怖で地獄に堕ちるような気がする。今でも時々酷くなるアトピーは、ストレスでもっと酷くなって、恐らく生活するのが今よりずっと難しくなるだろう。ひどい痒みや、恐怖やストレスに耐えつつ、全ての時間を費やして高みを目指し、自分を鍛え上げていく……。
頭の中で、ボロボロになって強制終了を余儀なくされている未来の自分が、ありありと浮かんだ。

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ここまで悶々と考えて、こうやって比べるの、元気がなくなっていくだけで損しかないなぁと気づいた。
劇団員の彼女は、厳しさに耐えられるだけの情熱と資質が元々あったのではないだろうか。百獣の王であるライオンが、元々体格が大きく、鋭い牙を持っているように。
肌が弱くて、すぐにストレスで体調がおかしくなる私は、どんな動物に例えるべきか。ライオンよりずっと小さくて、か弱い生き物は……?
ふっ、と、小学生の時に水族館で見たクリオネが思い浮かんだ。とても小さくて、手でつぶせそう。水温が上がるとすぐに弱ってしまう。だけど、流氷の天使と言われ、透き通った美しいからだを持つ。
さすがにクリオネは言い過ぎかもしれないけど(笑)。
でも、私たち人類は実に多様な個性を持っていて、その一つ一つを見ていくと、違う生き物ではないかと思うくらいだ。みんな外の皮は大体似ているから、同じ土俵で比べてしまうけれど。
人それぞれ、能力や個性、興味の方向のスタンダードが違うのに、比べるなんて意味がない。ライオンとクリオネという、全く違う生き物を比べるようなものだ。

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ライオンがクリオネのように冷たい深海の中で生きられないからと言って、何が問題だろう?
クリオネはライオンのように陸上を走れないが、それを嘆くだろうか?

彼女と私は、確かに舞台という似た分野の中にいるが、私は「彼女」ではない。能力や興味、経験も全く違う「私」という世界に1人だけの人間だ。
彼女のように出来ないからといって、何も自然の摂理には逆らわないし、天罰も下らない。
私が考えるべきは、「彼女と比べて何も出来ないし、やる気ないけど、どうしよう」ではなく、「私がより生きやすく、楽しく過ごすために1ミリでもいいから、何ができるだろう?」ということ。

ライオンが陸上で、クリオネが深海で、それぞれが生きやすい場所で生きるように、私も自分の息がしやすい場所を選んで、生きていけばいい。
どれだけ今の自分に落ち込んでも、このことを忘れなければ、人生へのやる気を起こしていけると思う。「私」という生き物の生存戦略は、私にしかできないのだから。