「自分で、一から舞台をつくろう」
演劇を13歳の時に始めて、結婚し転居し、アラサーになってもなおしぶとく細々と演劇を続けてきた。
しかし、コロナ禍に陥ってまもなく、私が在籍していた約70年の歴史を持つ劇団は活動休止となった。
結婚による転居で、距離的にも劇団への参加回数が元々激減していた私は、この活動休止によって演劇をする場も、大好きだったメンバーとの交流もしづらくなり、唯一の“好きなこと”を失ってしまった。トドメを刺された状態になった。

当時、私が働いていた会社は人間関係が悪く、コミュニケーション不全チームと化していた。不仲な人間の間をぎりぎり紡ぐ“板挟み調整役”として機能していた私の心は、どんどんすり減っていた。

このままでは潰れてしまいそう。そんな私を見かねた夫は

ただ働いて1日が終わっていく。
大好きな夫と過ごしたいのに、働いて、寝て、一緒に楽しく過ごす時間も取れない。
そして、唯一好きだった演劇もできない。
何のために生きているんだろう。
この嫌いな人達のわがままを叶えるために、私がどうしてこんなにサンドバックにならないといけないのだろう。
泣いて帰り、家に帰ってはお風呂で泣き、夫の顔を見てはまた泣く日々が続いた。

このままでは、自分が潰れてしまう、と絶望し、泣きながらプロの舞台のスポット映像を指を咥えて見ていた。
そんな私を見かねた夫が「自分でやってみたら」と声をかけてくれた。

「自分でやる」
この言葉が急に具体的に自分の身体の中に落ちてきた。
そして、私は半ばやけくそな気持ちもあって、勢い余って決断した。コロナ禍真っ只中だった2020年。
「自分で、一から舞台をつくろう」と。

一人芝居をすると決めるも、自分には価値がないと複雑な気持ちに

コロナ禍で最大限の感染症予防対策を講じるために、私は一人芝居をすることにした。
貯金をはたいて、劇場を借りるお金は1人で出した。稽古をする時間を確保する為に仕事も辞めた。

しかし、この一人芝居計画の準備中、何度も「演劇はやりたい。でも、私だけの芝居なんか誰が見たいと思うだろう」「私1人の芝居に誰がお金を出すんだ」。
自分には価値がないと思ってしまい、恥ずかしさ、後ろめたさ、悔しさ、惨めさ、自信のなさなど複雑な気持ちでいっぱいで、制作に取り組むことができない日も数えきれないほどあった。
会社員生活の中でも、自責の念が強く、とにかく自信がなかった私はこの自分の不安感と闘うことが1番大きな課題でもあった。

それでも夫の協力もあり、自分の心を毎日説得しながら稽古に励んだ。
「この挑戦は、きっと今までの自己肯定感の低い私を変える大きなきっかけになる気がする。」
そんな想いが、不安の根底にはあった。
自己卑下の言葉や不安感を無視して、この想いを握りしめて突き進んだ。

稽古は基本1人か、たまに夫に見てもらう2人体制。感染症対策で、音響などの外部スタッフとは合計4回しか稽古を合わせられなかった。
本番の数週間前、私は親に、
「お前なんかの芝居で人から金を取っていいと思ってるのか」
と罵声を浴びせられた。
ひどく傷つき、咽び泣いた。本番直前にして全ての自信を失っていたが、予約してくれているお客様や、手伝ってくれる友人達を想い、突き進んだ。

無事に完走できた私の一人芝居。何事もやってみなければ分からない

そして、迎えた本番。チケットは前売りで完売。満員御礼となった。
頂いた感想も好評で、大きなトラブルもなく、徹底的な感染症対策でコロナ感染者を1人も出さなかった。周りの協力もあり、私の一人芝居は無事に完走できた。
そしてこの経験は私の大きな成功体験となった。
自分にはできないんじゃないか、と何かにつけて思い続けていたが、「やってみなければわからない」ということを肌で感じた期間だった。

自分で自分の価値を下げていた。
生まれ育った家庭環境も良い方ではなかった為、受けてきた言葉の呪縛で自分自身をボコボコにしてきていた。
この経験は私の人生を大きく変えた。
今度は「本当はやってみたかった仕事にチャレンジしてみよう」と、今は個人事業主として働いている。
自転車操業で余裕はないが、自分で切り開き、チャレンジをする勇気と行動力を手に入れた。

「やりたいことはあるけれど、自分には出来ない」
こんな言葉は不要だと思った。やりたいだけでいい。
できるかできないかはやってみなければ、本当に誰にも分からない。

あの時、舞台を自分で一から作ること、一人芝居に挑戦することを決断して私の人生は本当に大きく変わった。
きっとこのチャレンジをしていなかったら私は今でも板挟み調整役として、泣きながら毎日を過ごしていたに違いない。