忘れたくないこと、それは9歳だった2002年に沖縄へ行き、ひめゆり学徒隊員の話を聞いたことである。
私は沖縄へ行くにあたって、事前に沖縄地上戦に関する書籍を読んでいた。しかし学徒隊員から得られた話は、今まで語られてきたこととは想定できないほど意外なものであった。そして、今まで語られてこなかった話を聞くことができたからこそ、私はこの話を忘れてはならないと想い続けている。

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それらの書籍によると、沖縄地上戦は原子爆弾のような核兵器こそ用いられなかったものの、現地で戦争が行われていたことから、アメリカ兵士と沖縄県民が「殺す」「殺される」の関係となり、互いがトラウマを負うものであったと言われている。また、アメリカ兵士は女性や子ども等の戦力にならない者も多く殺害したとされている。空襲が中心であった太平洋戦争の中では最も規模の大きい地上戦であり、書籍には現在の平和な日本からは想定し難いほど残虐な様が綴られていた。

しかし、2002年に私が対談した学徒隊員の話では、「すべてのアメリカ兵士が残酷であったわけではなかった」という。学徒隊員によると、負傷した日本人が「殺してくれー」と叫ぶと、「オーノー」と言って看病に当たった兵士がおり、お話を伺った隊員もその兵士に助けられたうちの一人であった。
学徒隊員は16歳の時に右腕に砲弾が当たり、日本人救護者によって右腕切断を勧められたが、「私は死ぬので放っておいてください」と答えた。その後、アメリカ兵士による看病が行われ右腕を切断せずに至り、このように五体満足でいられるのは助けてくれたアメリカ兵士のおかげだという。

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学徒隊員の話からは、「アメリカ兵士」として全体像で捉えるのではなく、当事者一人一人の話に耳を傾けることによって、新たな歴史の構築に貢献できることを学ぶことができた。また、どのような環境下に立たされても、「人の役に立ちたい、困っている人を助けたい」という精神を持ち続ける人がいるということを知ることができた。
当時9歳だった私は、人を殺すことを命じられる中で、それに反する行動を取ることはどれだけの意志と勇気がいることなのだろうと思った。

その後、学校の授業やメディアを通して戦争についてより詳しく知ることとなるが、日本の戦争史は政治史と生活史に偏りが見られることが分かった。
実際に教科書に出てくるものも書籍に記されているものも、祖父母をはじめとした戦争経験者が語ることも、その軸から大幅に外れることはない。沖縄に行く前に読んだ宮良ルリ氏の著書『ひめゆりの少女たち』の中にも記載は見つけられなかった。誰もアメリカ兵士から救われた話などせず、書籍にも記されていないようだった。

私はあまり知られていないことを語り継ぐことができた。どのような環境下に立たされても「人の役に立ちたい、困っている人を助けたい」という精神を持ち続ける人がいるということ。これは語り継ぐべき貴重な事実ではないだろうか。

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2010年に祖父、17年に祖母が永眠し、私の身近に戦争経験者はいなくなった。戦後77年が経っていることを考慮すると、語り部となる人は確実に減少している。私が訪れたひめゆり記念館も、2015年を最後に当事者による語り部はなくなり、生の声を直接聞く機会はなくなった。
9歳の時に著書で知った宮良ルリさんは、2010年のNewsZeroで櫻井翔さんと対談され、顔を見ることができたが、直接会って本の感想を言う夢は叶わず、昨年お亡くなりになった。
私と対談した方ももう20年前のことだから、ご存命なのか分からない。戦争を知った小学生の頃、みんな生きているからいつでも聞けると思っていた戦争の話は、気づかぬまま貴重な話へと化していった。そのことに気づいたのは、語り部を失ってからのことだった。

私は、書籍にはあまり記されていない貴重な声を聞くことができた。この経験を伝え続けていくことが、私の使命だと思っている。私は一生忘れない。そう心に誓っている。