私は多分、普通の人より政治に関心があった人間だ。というのも、私は以前ある政党の政治塾に参加したり、議員秘書のインターンを行った経験があるからだ。
投票所で一日中バイトしたこともあったし、政治塾に参加していた政党の選挙活動のお手伝いをしたこともある。そして、なにより私は選挙に出ようとしたことがあった。

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その政党で公認候補を募集していて、それに応募した。
応募にはまず、履歴書と志望動機書を提出する必要があり、私は政治学やら政治理論やらの本を図書館に通って一生懸命読み、練りに練った志望動機書を書いた。
ただ、政治に対する熱意はあったので、色々な本を読んで政治に関する理解の拡大には努めたが、志望動機については自分の素直な想いをベースに書き上げた。
果たして、書類選考は通過して、面接に呼ばれた。

公認候補者面接って、一体何が聞かれるんだろう?私には全く予想ができなかった。
ネットで検索しても、やっぱり何が聞かれたとかはヒットしない。それなればもう仕方ないので、自分なりの対策をするしかなかった。
私がした対策は、なぜ政治家になりたいのかという理由をしっかりと練って、それに対する質問や指摘も想定して返答を用意する、なぜうちの政党なのですかと聞かれた時の論理的な解答を用意する、政党のマニフェストを読み通して理解すること、の3つだった。
これ以外のことはもうアドリブでどうにかしようということにして、当日面接に向かった。

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面接では、立候補地に自分に投票してくれる又は後援会に加入してくれそうな友達や知り合いがどれくらいいるか、選挙を手伝ってくれる友達は何人いるか、選挙資金はいくら出せるか、の3つしか聞かれなかった(というか、そのステージで目ぼしい返答ができなかった時点で切られたということだろう)。
しかし、自分がなぜ政治家になりたいのか、という動機や熱意について、特に力を入れて準備していった身としては、まず面接内容に対する冷ややかな怒りが起こったが、すぐに政治そのものに対する落胆の感情が湧き上がった。そして、予想通り、私は公認面接に落ちた。

確かに、選挙に受かるためには投票してくれる人数が必要だ。私が立候補しようと思っていた自治体は最低当選者の得票数が1000票程度だったので、もし選挙に出るならば私は1000人に票を入れてもらう必要がある。
その1000人を確保できそうにないという時点でお払い箱なのは、仕方のないことだ。だから、所属政治家を増やしたい政党が「受かる」候補者を擁立したい、優先したいというのは合理的な理由である。しかし、人気者、有名人であることが、即ち政治家としての適性や能力があるかと言えば、それはまた別の話なのではないかと思う。
今の選挙システムでは、政治家になれる人の属性が絞られている。元々人気のある人、外向的なタイプで自分をどんどん売り込んでいけるタイプ、そして親などから応援してくれる人々を相続できるタイプの3種類だ。それ以外の人は、有権者ではあっても、直接的に政治に作用することはできない、ということを意味していると思う。

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政治家には、様々な属性の人が割り当てられるべきだと私は思う。馬鹿な人間は政治家になってはいけないという人がよくいるが、政治家が全員エリートになってしまったら、この世界はエリートのためだけのものになってしまうだろう。
人類史では、性別や人種や宗教や、色々な属性を取り上げて差別がなされてきたが、現代の国際社会は徐々にそうした属性のみによる差別を撤廃しようとした取り組みを始めているところだ。
選挙においても、色々な属性の人が認められるシステムになれば良いと思う。つまり、今の多数決的な民主主義もまた最善ではないかもしれないということである。
なぜなら、多数決主義の欠陥としてよく指摘されることであるが、少数派の抑圧に繋がっていくからである。なので、政治原理において人気至上主義に偏りすぎるのは将来的に危険であると思う。
真に良い政治を志そうという政党であれば、公認候補者の人気度だけではなく、内面や経歴、政治家としての適性、能力、熱意、そういった部分もしっかり見てあげてほしい。近視眼的には何の成果もあげられないかもしれないが、政治においては誠実であることが、長い目で見て一番市民の信頼を得られると私は考える。
そして、信頼を得て、正しい政治を行うことが、国家のため、世界のため、そして未来のためにできる最善なのである。