特別支援教育や発達障害について学んで、どれくらい経っただろうか。当事者の子どもたちと会ったり、大人たちと会ったりする経験を重ねる中で、新たな気づきや学びを得てきた。
そして、学んだことをまた別の当事者への支援に活かしていく。地道にコツコツと一人一人相手にあった支援の道を探していくのだ。

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当事者の方とお会いする機会が増えている今、私は改めて心がけないといけないなと思っていることがある。それは、発達障害を含む「障害を持つ方を、良くも悪くも特別視していないか?」ということだ。

障害を持つ方を見下している事例は、大変悲しいことだが枚挙にいとまがない。
eスポーツの選手による「障害者」発言や、チェーン店の店長による従業員のパワハラ事件をご存知の方もいらっしゃるのではないか。加えて、SNSでは「障害者=自分にとって都合の悪い、気に入らない人間」という意味合いのスラングが多用されている。
最も悲しいことだが、教員や教員を目指す学生が当事者をいじめているケースも多数ある。
例えばグループ活動で「発達障害者は何をやっても健常者に劣る」と笑いながら言った教員志望の学生。彼は実習先で、当事者の子どもが描いた絵に対して「絵が上手くても障害を持っていると知ったら下手に見える」と仲間らと陰口を叩いていた。
教員だって、当事者が攻撃性が無く反論が難しいことを理由にいじめのターゲットにして、クラスの団結に用いることもある。支援をする立場からしたらとても悔しい出来事だった。すぐに管理職に報告したが、解決はされていないようだ。
そもそも学校現場がおかしいのだろう。私は彼らを反面教師として、当事者でもそうでなくても一人一人を尊重して関わることに決めた。

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対して、障害を持つ方を極端に持ち上げすぎている事例も多数ある。
例えば、発達障害当事者の有名人や偉人は数多くいる(ただ偉人の場合は、きちんと診断をされていないため真偽不明。そもそも発達障害そのものが場面や状況によって出てくる特性の強さが変わるから、少しでも診断基準に出てくる特性に当てはまったら、「あの人は発達障害だ!」となってしまうのかもしれないが)。
それを「発達障害者=特別な才能がある」と極端な解釈をしてしまい、暴走する親と悩む子どもを見てきた。親は子どもに無理な勉強を強いて、子どもは課題についていけず、結果、子どもは心の病気にかかってしまうのだ。
まず、子どもの特別な才能は何か?それは本当に子どもが取り組みたい活動か?特別な才能を発揮する環境は整っているのか?何より、その特別な才能を発揮しないと子どもに価値はないのか?生きているだけで十分ではないのか?
正直、暴走する親に問い詰めたいことは山ほどある。おそらく自分の子どもが発達障害ということをコンプレックスに思うことの反動で、やたらと持ち上げているのだろう。
そして、当事者の子どもから「自分には特別な才能がないから、生きている価値はないのか?」といった質問。そのような価値観を自然と植えつけてしまう世の中が憎かった。
私は「誰にでも生きている価値はある」と必死に諭した。その言い方が正解だったのかは今でもわからない。

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見下す事例、持ち上げる事例、両方の事例を見てきた私は、最終的に「当事者であってもそうでなくても得意なことや苦手なことはあって、一人一人に価値がある」という考えに行きついた。
綺麗事かもしれないが、そのように多くの人をただ公平に思い続けることは、支援をしていく上で大事になってくると考えている。結局、当事者とそうでない人との共生社会はどちらとも尊重されて生きていくことに繋がるからだ。
また、人は誰しも優生思想を持っている。様々な環境を生き抜くための生物の本能だろう。でも、それをむき出しにしないのが人間だ。
ネットを見ていたり学校現場にいたりしていると、正直やまゆり園のような事件はいつ起こってもおかしくないと思ってしまう。だからといって自分の価値観で他者を傷つけてはいけない。

最後に、極めて当たり前だが、発達障害含む障害を持つ当事者の方々にも心はある。喜怒哀楽、感情はある。世の中には相手が何も感じない、何も理解できないと思い込んで、好き勝手に特別視している人が多すぎるのではないか?
障害者は見世物でもコンテンツでもなんでもない。たった一人の人生だ。
障害者差別が続く今、私は引き続き支援をする立場として声をあげていきたい。そして、自分自身も日々、当事者を特別視していないか自問自答しなければならない。