長年の蓄積で、いまだにオーボエの指置きの形に変形している右手の親指の形は、少しずつ本来の姿に戻ろうとし始めている。
二つのタコと、楽器を置くとピタッとフィットする爪。唇の下にあった、師匠と同じようにリードを置くことでついていたアザも、今ではすっかり消えてなくなってしまった。
10年あまり、クラシック音楽に捧げたあの日々は、少しずつ薄まってきている。

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夢を追うことは、自分の人生を犠牲にすることである。好きなことを追い求めることは、喜びであり、そして悲しみでもある。夢を掴む人は、特別。
私はその特別ではなくて、自分の人生を歩むことを選択してしまった。それは大きな友情を喪失したような感覚だった。
手放したものは大きかったけれど、それと同じくらい大きな新しいことが、私の中に流れ込んできた。それはとても感動的だった。

できないことばかりで、失敗も反省も毎日たくさん更新されていく。けれど毎月安定した給料は振り込まれるし、退勤して家に帰っても夜のドラマを見られる時間帯。休日に疲れ切って泥のように昼まで寝るようなこともなければ、溜まりすぎた疲労で1日寝込むようなこともない。
ある日の休日の朝、起きると母が家中の冷房のフィルターを掃除しているのに気がついて、それを手伝った時、私は朝一にそれをできる気力があることに、驚きと喜びを感じていた。
普通に生きるとは、こんな感覚だったのか、と。

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けれど先日、久しぶりに嫌な夢を見た。もう何ヶ月も楽器を吹いていないのに、日本の先生から、プロオケのエキストラの仕事を引き受けてしまう、という内容だった。
もちろん仕事終わりの練習なんて充分にできるはずがなく、本番に挑むのにふさわしくないクオリティで本番に挑まなくてはならないことになった。そして先生や他の奏者たちから向けられる冷たい目線に途方に暮れる……。
目が覚めてからは、しばらく楽器を吹いていない罪悪感や、師匠たちにあれだけの期待を受けていたにもかかわらず、心折れてしまったことに対する申し訳なさを感じて、1日落ち込んでしまった。
私はもう、あの期待に今後、応えることはできないのである。

夢を追いかけて音楽に捧げた10年間を、私は無駄だったとは思わない。全く別の業種に進んだけれど、これまでの人生で蓄積してきた経験が活きていると感じることも多い。
海外での生活や言語を習得したことで、英語を話すことに躊躇いもなければ、幼い頃悩んでいた人見知りも、いつの間にやら克服していた。人付き合いの感覚や、周囲を観察したり空気を読むこと。それらは音楽を通して、色んな人たちから指導を受け、少しずつ磨かれていった。それらを音楽に還元させられないことは勿体のないことではあるけれど、音楽だけに有効なわけではないと気づいた。

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生きていくことは、人と関わっていくこと。その最も当たり前で基本的なことを、人はなかなか気づくことがない。しかし音楽家の先生たちは、そのことに気がついていて、私にくれぐれも言い聞かせてくれていた。

夢を追いかけることは、かけがえのないことである。しかし夢を追いかけて、無理をすることが正しいかどうかは、私にはわからない。
それよりも自分の人生を生きることや、何気ない毎日を楽しむ余裕をもつことに重きを置くのも、かけがえのないことである。どちらも正しくて、どちらも素敵な人生である。
そして一度くらいは、寝食を忘れて夢を追いかける経験をすることも、してみてもいいとも思う。

必死だったあの日々は、私を強くして、色んな価値観や思考力を培ってくれた。あの日々に得た様々なことや、出会った人々、そして経験を、私はこの先、宝物のように心の中に持ち続けていく。
音楽家としての体や感覚は、きっと少しずつ消えていってしまうだろうけど、せめてあの研ぎ澄まされた、音楽だけで人と心を通じ合わせられたあの感覚を、忘れないでいたい。