あれは学生の終わる頃だった。
もうすぐ社会人になるほんの少し前。
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就職するという道を選んだけれど、それが本当に良かったのか。その会社で本当に良かったのか。
答えの出ない問いを自分に投げかけていた。
大学3年生で就職活動を終えた私は、早くに行動したという点では、ある意味優秀だったのかもしれない。
けれどそれは同時に、揺らぎの季節が長くなったという点では不幸だったのかもしれないと、今は思う。
今思えば、学生の間に、社会人になってからのことを決めるなんて無謀じゃないか。
これだけのものが変わってゆくなかで、1年後のわたしも同じように考えている保証などないのだ。
でも、当時は変わらないもの、いや変えてはいけないもののように感じる。就職活動は魔物だと感じる。
そんなときに、私も紛れなく揺らいだ。
この道で良いのだろうか。
そんなもの、働いてみないと正直わからない。
けれどモラトリアムな学生は悩めるゆとりをもっている。
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ある大人は、そんな道はやめておけ、という。
ある大人は、この道が絶対いい、という。
大人のいうことは絶対だ。
そんな風に思うのならば、容易に心は壊れてしまうくらいに世の中には人の数だけ正義がある。
そして、その人なりの正義は、大方その人の人生からきているのだと思う。
だれしもがみな自分の人生を肯定しながら生きている。
なので、自分が経験したことが良かった、正しかったと思う。
そして、人によっては個人の正解に過ぎないそれを「世の中の正解」へと化し、若者へ押し付ける。
アドバイスならまだしも、求めてないのに押し付けてくる外野の存在にどれほど苦しめられたことだろうか。
いい迷惑だなぁと今はおもう。
たくさんの人と交流して、どこか八方美人だった私は、人の倍悩んだように思う。
そんななかでもある人は、どちらがいいだのこうしたらいいだの、いうことはなかった。
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ひとつとても印象的だった言葉がある。
それが「whyがあればどんな道にいっても開花する」だった。
このwhyは「なぜやるのか」という想いの部分だ。
なぜ生きるのか?生き方の芯があれば、どんな道にいっても大丈夫。
そんな風に言ってもらえた気がして嬉しかった。
AかBか?どっちがいいのか。
何を判断軸にすればいいのか。
どうすればいいのか。
そんなQ&Aは世の中に溢れている。
でも、人が求めているのはそうじゃないのかもと思うことがある。
どんなこともOK。
どんな道もOK。
どんな意思決定をしてもOK。
そんなOKがほしい若者は多いんじゃないかと。
少なくとも私はそうであったし、今もそう思う。
自分に自信がない。
自分の考えで意思決定ができない。
その苦しみが痛いほどわかるような気がする。
だからこそ、それを乗り越えた私には使命があるのだと思い、今日も働いている。
悩みの暗闇にいるどこかのだれかが、何を選んでも肯定されていい存在であることを知り、どっちもOKなんだと背中をまた押されるように。
今度はわたしがそんな大人になる番だ。