私は優先順位をうまくつけることが出来ず、祖母との最期のやりとりを逃した。

そもそも、私の祖母は何かと適当で、いい加減な人だった。四角いテーブルを丸く拭き、そのままで美味しいカレーに中濃ソースやらコーヒーやら隠し味をやたらと入れたがる。
極めつけは、私が高校生の時の誕生日プレゼントだ。
誕生日当日の朝に、オーロラのシフォン素材のリボンが付いたヘアゴムと、持ち手にラインストーンが貼られた黒い櫛をくれた。ヘアゴムは少し子供っぽくて使えそうにないけれど、櫛は使えそうだな、なんて思っていた。それらを百円ショップで発見するまでは。

本人の中では、やったつもり、責務を果たしたつもりなのかもしれない。
だが、テーブルの四隅は拭かれていないし、カレーは何とも言えない味になっている。それに私はリボンのヘアゴムと櫛で喜ぶような年齢ではない。だから、私の中では「優しいけれど、ちょっとずれた人」という認識だった。

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そんな祖母とは、私の大学進学を機に文通をするようになった。
元々祖母は、趣味で20年ほど俳句と絵手紙をやっていた。一方、私は絵をみることが好きでも、描く方はあまり得意とは言えない。そこで祖母の絵に対し私は文章で返した。

最初は大学の講義がオンラインで家によくいたため、週1でやりとりをした。初めての一人暮らしに加え、大学の友人もいなかったため、祖母からの絵手紙が何よりの支えだった。

しかし、大学1年生の秋から途端に頻度は落ちた。理由は、新しく出来た大学の友人たちと話す方が楽しかったからだ。
やっと対面授業が行われ、夢のキャンパスライフが始まった。友人とコロナによる鬱憤を共有して、美味しいご飯を食べて、深夜まで語り明かした。ひたすらに楽しかった。その間も祖母は欠かさず送ってくれたが、何かと理由をつけて返さなかった。

大学2年生になった頃には、2ヶ月に1回のペースで送っていた。その頃の手紙の内容は今思うとひどい内容だった。大学であった出来事をだらだら書き連ね、読み手を全く意識していない文章。
それでも、祖母は私の出来事一つ一つに反応して絵手紙を返してくれた。私が何気なく言った「紫色のお花の絵手紙を見てみたい」というリクエストにもちゃんと応えてくれた。

そして、絵手紙のやりとりをして2年が経とうとした日のこと。ちょうど2年生の期末試験期間で課題に追われていた日のこと。
祖母はこの世から旅立ってしまった。

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父から1週間ほど前に、祖母が入院したことを聞かされた。しかし、食欲もあり、本人も退院のために精力的に動いていると聞いていたから、まさかと思った。
医師からは「免疫力が弱まっているから最悪の場合も考えられる」という話もあったそうだが、まさかと思った。
だが、その「まさか」だった。

私は急いで行きの高速バスの時間を調べた。時間的に出発は明日以降だから、ひとまず持ち物と気持ちの整理に努めた。PCに着替えにお金。一通り準備出来た時、テーブルの上に最近届いた絵手紙が無造作に置かれているのに気づいた。
いつものように、何かと理由をつけて返事を送らせていたままの絵手紙。そこには私の身体を気遣うメッセージが書かれていた。自分の身体の方が大変なのに、本当に「優しいけれど、ちょっとずれた人」だなあと思った。

私は持ち物に、今まで送られてきた祖母からの絵手紙の束と、返信用の便箋と封筒を加えた。そして、祖母への最期の手紙を書こうと思った。それは償いでもあった。

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祖母からの絵手紙の束を数えたら100は優に超えた。それに対し、私の手紙はその5分の1にも満たない。いかに私が祖母とのやりとりを疎かにしていたのかを痛感した。
だから、せめてこの手紙だけでも、最後に祖母と共に燃やされて灰になってもいいから、書かなければならないと思った。これが祖母の恩に報いる、最期の機会だと思った。

絵手紙の返事は、行きのバスの中で書いた。もう送り先がいないと分かっていながら書くのは正直しんどかった。それに、何を書いたらいいのか分からなかった。途中で苦しくなって、今更書いても無駄だとも思った。
しかし、自分を奮い立たせてひたすらにペンを走らせた。乗車時間2時間分を目一杯使って書き切ることが出来た。その時は変な達成感とむなしさを感じた。

あの時、あんなに必死になって書いた手紙だが、今はもう何を書いたか忘れてしまった。
けれど、失ってからその大切さに気づいた瞬間の後悔は、これから自分の周りの人を大切にしていく上で忘れたくない。