私はモノをずっと残してしまうタイプだ。
特に思い出があるものは余計に。
「なぜこんなものを」というモノシリーズの断捨離を決意
学生の頃から使用していた机を処分することになり、これを機に一気にモノを捨てることを決めた。
出てくるわ、出てくるわ、「なぜこんなものとってあるのか」というモノシリーズ。
好きだったアイドルの切り抜きやグッズ。
旅行時の自分へのお土産やガイドブック。
小学生頃のあゆみ(通知表)。
中学生頃のテスト結果まとめ・体力テストの結果。
高校生頃の制服……修学旅行などのしおり……生徒手帳。
「これいつまで残してあるの?」と思うものばかり。
笑いのネタになるのもあれば、なんでこんなもの捨ててないの?は?ムカつく!と思うものまで、なぜそんな気持ちになるものまで残しているんだ自分よ……と思うほど私は物を捨てられない。
ここで整理しないと!決め、断捨離することを決意して正解だった。
挙げたらキリがない。
中途半端なものたちだった。
教科書や大学時の資料などは、社会人になった今でもタメになるものは残しつつ、旅の思い出も私の中ではこれは!というのは残しときながら、断捨離をしてきた。
放置していた手紙ボックスから出てきた便箋に、時が止まる
少しずつ断捨離の目処がついた頃に、無造作にまとめているボックスを見つけて、
「これを整理するのかぁ」
と、ため息がでた。
そのボックスは、放置していた手紙。
今なら小学生も携帯でやりとりするのかもしれない。
当時の私は手紙を書くのが好きだった。
そして、転校が多かったので前の小学校の友人と手紙のやりとりしていたこともあり、また妹が幼い頃、手紙をよくくれていたので沢山の手紙が残っていた。
これを機に改めて読んで処分するか決めようと思い、手紙ボックスを見た。
もう二度と会わないだろう懐かしい友人からの手紙もあれば、今でも仲のいい友人や妹からの手紙も出てきた。
懐かしいなぁと思いながら一つ一つ見ていた。
そんな時だった、他の友人や妹からの手紙と違い、白い便箋が綺麗に畳まれている手紙。
「あ」
自分でも時が止まったのを感じた。
開いてみると、数年前に亡くなった祖母からの手紙だった。
手紙の内容は、コロコロクリリンのぬりえを見つけたから送ったわよと、当時5歳の頃の私へ宛てた内容だった。
祖母の手紙と同時に出てきた、祖父が私と妹に宛てた年賀状
幼い私への手紙で、当時の祖母を思い出す。
「いいお姉さんなのわかってますよ」
「また早く遊びにきてね」
祖母の優しさを感じる言葉だった。
祖母からの手紙と同時に大切なものが出てきた。
それは年賀状だ。
祖母より前にこの世を去った祖父が書いた、私と妹に宛てた年賀状。
当時は小学生だったのもあり、「今度は●年生になるのね」と一言添えて、私への愛と「会いたい」気持ちが今でも伝わる年賀状だった。
不思議なのが、祖父が亡くなる年の年賀状には、「さようなら」と書いてあることだ。
祖父からしたらなんともない言葉を使用したのかもしれないが、私からしたら最後の年賀状が「さよなら」なのが苦しい。
祖父が亡くなったのは予測不可能なタイミングだったとはいえ、もしかしたら察していたのかもしれない。
これが最後の年賀状だったと、過去形になってしまったのは仕方がないことだけども、私は手紙と年賀状をずっと残していて本当によかったと思っている。
なぜなら、祖父母が亡くなって年月が重なっていくにつれ、忘れることはなくても、「声」やどんなやりとりをしていたのかを思い出せないときがあるからだ。
「声」は思い出せなくても、直筆の手紙は「声」そのもの
亡くなった人と会えないのはもちろん嫌だけど、一番嫌なのは「声」をすぐに思い出せなくなること。写真はあるのに、過ごした思い出があるのに、辛い時、ふとしたとき、命日の時に、寂しさを感じていた。
そんな時に2人の直筆の手紙・年賀状が出てきたのが嬉しくて、ボロ泣きした。
2人の「声」が思い出せなくても、直筆の手紙は私からしたら声そのもの。
これは絶対に捨てない。
捨てるなんて考えられない。
大切な私と祖父と祖母の思い出。
2人が私に遺してくれた、捨てることはできない大切なもの。