その言葉は、もはや呪いのようにまとわりつき、私の身を離れず、側でニンマリと佇んでいるような気さえする。
いつも何かを諦めて楽になろうとするたびに、そいつが顔を出してニヤニヤと笑うので、全くやってられない。
おかげで私はいつでも、そいつに背中を押されて、やれやれと首をふりながら、チャレンジングな世界に足を踏み出すことになる。

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私には大叔母がいた。
80歳を過ぎても現役の歯科医師として地域医療に従事し、人々の尊敬を集め、強く逞しい人だった。
生まれつき、彼女は足が悪かった。時代が時代だ。足が悪い彼女がどこかにお嫁に行くのは難しいと考えたのか、曽祖父は彼女に「一人で逞しく生きていく」ことを課し、戦火が鎮火して間もない東京に送り出した。
大叔母はわずか17歳で一人汽車に乗って上京し、焼け野原の東京の青空教室で歯科医学を学んだ。

私の大叔母は強い人だった。
何十年も一人で、医者が少ない田舎の歯科医師として活躍した。
小さい時、一度だけ歯を抜いてもらったことがある。前歯が生え変わる時に間違えて、内側を向いて生えてきてしまったのだ。
どんなに怖い治療が始まるのだろうかとビクビクしていた幼い私の口にピンセットを突っ込んだが一瞬、気づいたら目の前でエプロンに多少の血を飛ばした彼女が、私の歯を挟んだピンセットを持ったままニコニコと立っていた。
痛みも何も感じなかった。腕の良い歯科医師だった。

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私の大叔母は亡くなった。
後年はずっと闘病していた。
亡くなる前の日、病院から帰ってきた彼女は、家まで続く坂道を自分の足で登ることに拘った。
病院に付き添った姪っ子が、おぶって登ろうかと申し出たが、それを断り自分の足で歩いて登ると言い張った。
それから、「頑張れ、頑張れ」と何度も自分に声をかけながら、ゆっくり、でも確かに、最後まで自分の足で登り切った。
普段なら5分もかからない坂道だが、その日は1時間もかかった。
きっと闘病が始まってから、「頑張れ、頑張れ」と何度も自分に声をかけ、鼓舞していたのだろう。
終戦後の東京で一人学んだ時も、医者の少ない田舎の医療を一人で支え続けた時も、きっと「頑張れ、頑張れ」と何度も自分に声をかけていたのだ。
彼女は最後まで自分の足で立ち、生き抜いて、そして次の日に亡くなった。

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彼女が住んでいたのは、特攻隊の土地、知覧だ。
若い命がたくさん散った。多くの若者の未来が海に消えた。

「頑張れ、頑張れ」
生きたかった多くの命が消えた土地で、最後まで誇らしく生き抜いた大叔母が最後に身をもって伝えてくれたのが、この言葉だった。

大叔母が亡くなって、もう7年が経つ。
未だに私は、大叔母が残してくれた言葉に背中を押してもらって生きている。
とは言え私は別に、大層なことを成し遂げる英雄ではないし、そこら辺を普通に歩いている凡人だ。
それでも、チャレンジを辞めたくなった時、努力を辞めたくなった時、この言葉がニンマリと笑いかけるのだ。

お前、まだまだやれるだろ?と。