愛する祖母に二つ、人として欠かせないものを教わりました。それに対して謝りたいことがあります。
溢れんばかりの愛に何も返せないでごめんなさい。
最期の思いやりと優しさに気づけないでごめんなさい。

「私の天使、生まれてきてくれてありがとう」

一つ目は無償の愛についてです。
祖母は自身の患う透析や癌などから、体調管理をするノートを長年にわたって書いていました。「某月某日、血圧云々、朝食は喉を通らず、昼食は食パンを食べられた、少し排泄できた、夕食は残してしまった。」こんな具合に。
酷く心打たれたのはそこに書かれていた、当時2歳だった私についての言葉です。
「私の天使、生まれてきてくれてありがとう。いてくれるだけで嬉しい。」
いてくれるだけで。それこそ私は実家へ帰る母について行き、沢山のものを物理的にも精神的にも与えてもらうだけでした。ひたすら甘えていました。私は祖母に何か与えられたでしょうか。

どうしようもなく幼かった私はしばしば問題行動を起こしていました。複雑な家庭環境で育ったものの、誰もが私に異常さを覚える中、祖母はずっと
「きっとこの子を理解してくれる人が現れるから。」
「今あの子がやっていることは必ず意味があるのよ。」
と言い信じてくれました。

祖母の目は曇り、私に見せまいとした最期が写っていた

二つ目は命の尊さです。祖母の死をもって初めて、生きている私を理解しました。
祖母は末期癌で亡くなりました。正確には、透析に体が耐えられなくなったのです。本当なら亡くなった翌日の土曜日、小学校が休みの日に最期を覚悟して会いに行くつもりでした。初めて人の死を実感するであろう私にまるで「見てはいけない」とでも言うように、長期休みで忙しさがなくなる時に合わせて、自ら最期を選ぶように祖母は亡くなりました。

母に連れられ学校を早退し霊安室に入ると、祖母がいました。“いる”という表現が適切かはわかりませんが、確かに祖母はいました。ご遺体に対してよく言われる「眠っているみたいね」というフレーズが本当にしっくりきました。
特殊な技術なのか、霊安室で眠る祖母に触れると、数時間前に息を引き取ったのに温かさを感じました。
対して葬儀までの期間、自宅で眠る祖母に触れると、ドライアイスで冷たさしか感じませんでした。
人工的にせよこの温度の違いが衝撃的でした。そして私はご遺体に対して非常に失礼な行動をとります。
祖母の目を開いたのです。
切実に“眠らない祖母”を見たくなりました。眠る祖母を前にして私に祖母を感じさせるのは、私に向けられた温かな眼差しでした。しかし開けた目は曇り、祖母が私に見せまいとした人の“人の最期”が写っていました。生々しい冷たさが指先に残りました。私は再度衝撃を受けました。

祖母へ。あなたのおかげで命は紡がれていきます

祖母が他界したのは私が11歳の時です、亭年68でした。その後、祖母が言っていたことが伏線として回収されるかのように、私は徐々に変わり始めます。

まず私は美術の楽しさに気づきました。芸術を嗜む先生方や、絵を描く私に興味を示してくれた友人達に出会い、祖母が健在だった頃の私からは考えられないほど世界が広がったのです。実は他でもない祖母が、磁石の力で繰り返し描ける“お絵描き先生”というおもちゃで絵を描くきっかけを与えてくれたのでした。

次に高校一年生で哲学に出会いました。そして春から大学生になる今、哲学科に合格を決めました(美術が好きなのになぜ哲学科なのかと問われるかもしれませんが、哲学と美学は密接に関わり合っています)。
私は比較的早い段階で人の死に触れました。様々な死生観を知った時、私が哲学を学ぶことは天命だとさえ感じました。

こうなると、私に対して祖母が取った全ての行動が、将来を見越していたのだとさえ思えてきます。ここでは死後の世界については触れませんが、祖母に今の私を見せることができていません。謝罪とともにどうしても伝えたいです。

祖母へ
メッセージ、届いていますよ。どれもお返しできなくてごめんなさい。あなたがくれた大きな愛で天使はこんなに大きな人となりました。あなたのおかげで命は紡がれていきます。ありがとう。大好きよ。愛しています。