「あの人、おねえみたいで、なんか気持ち悪いんだよね」
「あ〜」
上司から発せられた何気ない一言に、私はただ言葉を濁して返すことしかできなかった。
今月はLGBTQ +の強化月間、対外的なイメージを重要視して会社で謳っているものの、実状はこんなものだと実感せざるを得なかった。

◎          ◎

私はほんの少し前までの社会では、誰もが“普通”だと思っていた部類の人間だ。
身体的に女性に分類され、これまで好きになってきたのは偶然身体が男性だった。私が中学高校を過ごしていた時代は、私とは異なるセクシャリティの方がその他大勢にいじられることを放映しても、問題にならない時代だった。当時はそれを問題視も許容もせず、冷たい言い方ではあるが興味がなかった。
しかし、いつからか、社会において多様なセクシャリティが認められ始め、同世代でこれまでの“普通”とは異なるセクシャリティを持つ人々が表に出始めてくると、私の中でも多様なセクシャリティが自然と浸透していった。私の近くにも実はいるかもしれない、カミングアウトされたらどう反応しよう、そんなことを考えたこともあった。

「何か特別なことをして欲しい訳ではなくて、純粋に知っていてほしい」
マルチアーティストのkemioさんがYouTubeの動画内で放った言葉だ。kemioさんは同世代でセクシャリティを公表している方の一人で、私がセクシャリティを理解するきっかけになった方だ。
この言葉を聞いたときに、私の中に稲妻が落ちた。

◎          ◎

私は、結局のところ、受け入れたつもりになっていただけで、自分とは異なるセクシャリティを持つ人を特別視し、平等に接する姿勢ではなかったのだと思う。セクシャリティは人が持つ多くのポイントの一つでしかなく、それを過剰に批判することも反応することも同じなのだと気づいた。
考えてみれば、これまで私が人を好きになった時も、決して男性だから好きだったのではなく、その人だったから好きだった。その人のセクシャリティが男性だった、それだけだった。

ここまでLGBTQ +の方に焦点を当てて話をしてきたが、実のところ“普通”と呼ばれる人々の中でもセクシャリティによる分類は無意識的に行われていると思う。その代表が「女だから、男だから」という考え方である。

例えば私の職場は元々男性の多い職場だったが、今では構成員の半分が女性だ。しかし管理職の女性は数十人のうち一人のみ、また、セクシャリティを基準とした業務の振り分けもしばしば見受けられる。
人を構成するポイントの一つでしかないセクシャリティに固執し、あたかもそれが全てだと言わんばかりの采配を行う。そんな組織の決定権を持つ上の世代が新たな時代の流れに取り残されているのはもはや火を見るより明らかだ。

◎          ◎

この時代というのはSNS等を媒体に、誰でも簡単に自身の考えや想いを表現して発信することができる。同時に多様な考え方にも触れることが可能なため、生まれた時からそれらが当たり前な若い世代ほど、人の考えや想いに対しても寛容だと考える。
たとえ身体的に男性の方がメイクをしていても、気持ち悪いという感情はなく、技術がすごい!やメイクの仕方が好きだからフォローする!といった判断をする。そこにセクシャリティの壁はなく、いいと思ったもの、自分が信じたものを基準として、その人だからいい!と思い生きている。

冒頭の言葉、セクシャリティを理由に関係を断つこと、そして仮に私が彼らの思う“普通“ではないことを隠して“普通“を演じていた場合の重大さを上司はきっと知らない。
私たちはセクシャリティで人との関係や絆を深めているのではない。その人を構成する全ての要素を加味した上で関係を構築するのではないだろうか。
そんな流れに寛容であることが、これからの世の中を生きていくことであると、上の世代に伝えていきたい。