家から帰ると、私は洗面所に直行する。
手を洗い、うがいをする。そのあと、メイク落としを手に取る。
ファンデーションが、アイシャドウが、口紅が、自分の肌から離れていく。重たい鎧を脱いでいるような気分になる。
メイクは嫌いじゃない。店でメイク用品を見ると心が躍るし、メイクが上手く出来た朝は心の中でガッツポーズをする。
いわゆる「整った」顔立ち、ではない。すっぴんより、メイクをした後の自分の顔の方が、断然好みだ。
それなのに、メイクを落とす前より大きく見える鼻が、色の薄い唇が、開いている毛穴が、こんなにも軽いのは何だろう。

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自分の部屋に入って、服を脱ぐ。
コロナ禍で少し太った。顔も明らかにふっくらしたし、お腹に脂肪もついている。
だけど、痩せていた数年前より体調の良い日が多い気がするし、グラム単位の体重増減で一喜一憂していたあの頃より、数キロ単位で太って、もう気にしてもしょうがないか、と思ってしまっている今の方が、何だか気楽なのだ。
スカートから高校ジャージに着替える。
高校を卒業してからも着続けているからか膝には穴が開いている。そもそも新品時からオシャレとは言えないデザインだった。
スカートだって嫌いじゃない。でもジャージに着替えると、いつもこの服の自由度に感動する。このまま走り出しても裾は私の邪魔をしないし、布団にダイブしたって皺を気にしなくていいのだ。

メイクもダイエットもオシャレもしていないこの姿を、社会は「手抜き」とか、「干物女」とか言うだろう。
でも私は定期的に散髪しているし、お風呂に毎日入っている。世間が求める「清潔感」とやらはきちんと保っているのである。
なのに何で、「女として」ダメだと言われなくてはいけないのだろう。私は着飾らなくとも年を重ねても女であり続けるのに、何故周りは私が女として十分か否かを決めるのだろう。

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SNSで、女性が自分に自信をもつようになる過程が描かれる漫画が流れてくることがある。それらの漫画の中で女性を鼓舞するのは、大抵、洋服や化粧品、ダイエットである。
否定したい訳では決してない。むしろとても好きだから読んでいる。女性が誰かのためでなく、自分のために動く様子はとても勇気づけられる。
しかし、同時に、化粧を落とした自分を見る方が、踵の高い靴を脱いだ時の方が、以前より少し太った時の方が、自由で、自分に対して肯定的でいられる私のような女性も物語の主人公に成り得たらと思うのである。

先日、急に思い立って、SNSで見つけた喫茶店に行ってみることにした。SNS映え、といった感じではないし、駅からもそれなりに離れているけれど、素材の味を生かしているのであろう、素朴なメニューの写真に惹かれたのだ。
行こう、と思い立ったはいいものの、初めてで、一人で、ちょっとどきどきした。でも普段、慎重な私はこんなことをしないから、何だかわくわくもした。
いつもより少し早い脈拍を感じながら、化粧道具を手にして、洗面所に立った。顔を洗って、鏡越しに自分の顔を見たときに、あれ、と思った。
なんか、化粧、しなくていいかも。

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特別何かあったわけではない。肌の調子も髪の広がり具合もいつも通り、何ならちょっと良くなかったけれど、何となく、このままでいいや、と思った。
そこらへんにあったTシャツとズボンに着替えたとき、昨晩除毛していなかったことに気が付いた。二の腕が太くなったことにも。これも、まあいいや、と思い、そのまま出かけた。

傘をさすか迷う程度の小雨の中、部屋にいるときとほとんど変わらない格好で向かった喫茶店は、こぢんまりとしていて、BGMもかかっていなかった。常連客らしき人たちが、一人で店を切り盛りしているオーナーと世間話をしていた。
運ばれてきた紅茶は、何の変哲もない、シンプルなマグカップに入っていた。
私の格好も、店の雰囲気も、食事も、別にきらきら輝いてはいなかった。なのに私は、充足感で胸がいっぱいだった。
飾り気のない味、飾り気のない店内、そして飾り気のない私。私にとってはこれらが、幸せの象徴のように思えた。

会計をしようとレジに向かうと、オーナーに声をかけられた。
「お客さんが読んでいた本、私も読みたいんですよ」
こう言われたとき、私は、ふと、こう思った。
いつの間にか、外出するときは服装や化粧に気を付けなければならないと思わされてきたけれど、そんなことしなくたって、誰かと繋がることができるじゃないか。
ありのままの自分で、社会にいたっていいじゃない。そう私は思っているし、そういうことがもっとポジティブに受け止められるようになるといいな、と、そんなことを考えた。