今考えても不思議なことがある。私の小学校のアルバムを開くと「イケて」て、「カッコよく」て、「スポーツ」をやっている男子はみーんな坊主なのだ。やっているスポーツが野球でも、サッカーでも、剣道でも、バスケでもみんな一様に、バリカンで剃り上げている。
私が6年間片思いしていたA君も野球少年で、当然坊主。結果、私の好みのタイプは、現在に至るまで一貫して「坊主のスポーツマン」である。

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A君と離れて別の中学に進学したあと、失恋やモテ期を経て、私はクラスメイトのB君を好きになった。
きっかけは給食のフレンチトースト。食欲旺盛だった私は、給食で余っていたフレンチトーストを賭けたじゃんけんに参加した。10人ほど参加者がいただろうか、B君との決勝戦に残ることができた。じゃんけんぽい、で敗北。涙。でもB君は「これ半分やるよ」とフレンチトーストをちぎり、しかも大きい方を私にくれたのだった。
中学生なんて、いや少なくとも14歳の私は単純である。普段無口のB君が見せた優しさにやられ、その瞬間恋に落ちた。そして忘れてはならないのが、B君は坊主で野球部だったのである。恋に落ちるのは必然だろう。

でも、その恋が実ることはなかった。
メールでやりとりしたり、彼の得意な数学を教えてもらったり、部活後にキャッチボールしたりした。しかし、告白するために友人にB君を呼びだしてもらうと、きまずそうに友人が戻ってきて、「まよにごめん、って言われた」と伝えられた。

ショックだった。受け入れられる/振られる以前に、思いを告げることすら許されないのか。私はそんなに圏外な女なのか。勉強はできる、スポーツもそこそこ、顔だって平均くらい、何より陽キャだった。
せめて振られたかった。告白すら許されなかったことに、ひどく傷ついて、その納得のいく理由を探そうと必死だった。

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その答えらしきものを見つけたのは、高校生になってからだった。
韓国への就学旅行でのバス移動中、隣の席の友人と恋バナをしていた。その子は、恋愛経験豊富なだけでなく、一度付き合うと何年も長続きする恋愛上手。当時年齢イコール彼氏いない歴だった私は、常々思っていた疑問をぶつけてみた。

「ねえねえ、あなたは彼氏もいるけど、友達も多いじゃない」
「うん、まあそうだね」
「彼氏っていう存在と友達っていう存在、どう違うの?何が特別なの?」
うーん、と少し考え込む友人。そしてこう続けた。
「全然違うよ。何か誰かにこれを伝えたい!ってとき、友達だと何人かの顔が浮かぶけど、彼氏は彼氏の顔しか浮かばない。代替不可なんだ。唯一無二の存在になるんだよね」

その返しを聞いて、はっとした。私はB君を、「坊主」で「野球部」という代わりがいくらでもいる肩書以外で見たことはあっただろうか。ただ坊主で野球部という見た目と属性だけに恋をしていたのではないだろうか。そして告白すらできないことに傷ついていたのは、彼のことが好きだったからではない。自分のことしか愛しておらず、それが拒否されたから悲しく苦しく辛かったのだ、と。

そういえば、B君に告白したとき、「中学3年生だし、彼氏くらい欲しいな」という焦りもあった。恋は下心、愛は真心という。私のは純度100%の下心であったのだ。相手を好きといいつつ、好きなのは自分だけ。確かにこれは問題外だろう。
ふられた理由は、私が恋に恋していたおこちゃまだったからだ。

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フレンチトーストで甘く始まった片思いは、苦く終わった。あのときじゃんけんで負けてB君を好きになって、結果貴重な学びを得たのは、「負けるが勝ち」だったと言い張ってみよう。

今でも坊主頭に弱い私は、最近ではかが屋の加賀さんがドストライクである。古い友人にそのことを言うと、「いかにもまよが好きそうな顔だわ」と笑われた。かが屋の加賀さんに、フレンチトーストのじゃんけんに負けた上、半分分けてもらったら、絶対に恋に落ちる自信がある。
ふられた痛みから学べよ、と思うが、好みというのはそう簡単に変えられないものだ。