自分にはあまり価値がないと思っている。
「わたしが枷になっているせいで、お母さんは幸せになれていないな」と思ったり、「わたしが生まれていなかったら、弟がもっと不便なく生きられただろうな」と思ったり、「わたしがいなかったら、おばあちゃんも無駄に高額な出費せずに済んだのにな」と思ったりして生きている。

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中高生時代の同級生で、今も定期的に連絡を取ったり会ったりするような人もほとんどいない。
当時も、嫌われていたか、なんとも思われていなかったんだろうと思うし、思い当たる節もある。
今だって、"セナ"である必要がない、誰にでも代わりができるような仕事をしているし、今のところ、職場にわたしがいなくても多分、誰も困らないだろう。

顔だって大して可愛くもない。美人でもない。
顔の造形が美しくないという旨の言葉を投げられたことも、一度や二度ではない。
体型も、至って中肉中背。日本人女性の平均身長と平均体重を見事に表現している。
同性にも異性にも、「おっぱいないもんね」と揶揄われたことがあるし、「ぷにぷにだね〜」って贅肉を摘まれたこともあるし、わたし自身もそのことを気にしているときもある。
全体の9割くらい、どこにも価値がなさそうである。

それでもわたしが今を生きているのは、半分くらい惰性、もう半分くらいが意地、残りの少しがこんなわたしのことを好きだと言ってくれて、わたしが大好きな人たちのため、である。
大好きな人が支えてくれているから、首の皮一枚、こっちとあっちを繋ぎ止めているのだが、やっぱり根幹は、「こんなわたしのどこに価値があるんだろう」である。

惰性と意地だとしても、自分に価値がないと思いながら生きていくのは結構しんどい。
自分に価値を見出すためにわたしがしたことは、自分自身に、物理的に価値をつけることだった。

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実際、ラウンジやキャバクラみたいなところで、おじさま方とお酒を飲んだり、お食事をしたり、おもてなしをしてお金をいただく仕事をしたこともあるが、実はこれ、別に自己肯定感は上がらないし、むしろ全然下がっていくばかりでわたしには価値を見出すことができなかった。
正直、始めた目的も、「お金を稼ぐ」ことだったので、それが達成できただけ及第点である。

では、これ以外にわたしがわたしに付与した価値とは、まず、血液である。
全国には、輸血を必要としている人が大勢いるらしい。
対してわたしは、超、健康体である。
わたしが血を分け与えることで救える命が、きっとあるだろう。
それに、体重が一定以上であれば、400mlの献血をすることが可能なのだ。
痩せすぎていると、400mlも献血することはできない。
わたしの可もなく不可もないが、ぷにぷにとした体型も、役に立つことができるのだ。

また、臓器提供の意思表示も行なっている。
今は生きているから、わたしを好きでいてくれる人たちの価値になれているはずだし、輸血を必要としている人たちの価値となっているはずである。
だが、脳死などになってしまった日には、わたしはわたしに価値を見出すことが、本当にできなくなってしまう。

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死ぬことはおろか、生きることだってできない状態である。
そうなったわたしができることは、臓器提供ただ一つだろう。
いざそうなったときに、ちゃんと何らかの価値を提供できるように、免許証の裏、マイナンバーカード、臓器提供意思表示カード、必要なもの全ての該当部分に印をつけている。
今はまだこれくらいだが、骨髄バンクにも登録したいと思っている。
また、妊娠、出産を迎えるときには、臍帯血のドナー登録もするつもりである。
髪の毛に関しては、短い方が好きだし似合っていると思っているので、いつか決心がついたらヘアドネーションなんかもできたらいいなあと思う。

これが、自分自身に価値がないと思うわたしができる、最善の価値提供である。
それでいて、わたしが、わたし自身の身体と、仲睦まじくというまではまだ難しくても、安らかに付き合って行くための、大切な手段なのである。