最近は標準体重より多いことを、「マシュマロボディ」「わがままボディ」など、一見オブラートに包んで表現する。
私は生まれた時より今日まで、一度もモデル体型になったことがなく、いつもぎりぎりの標準体重。気を抜くといつの間にか肥満体型になっていることも多々ある。そこにこの胸が、周囲にグラマーな印象を与えるらしい。
しかし、この言葉の裏の意図は中学2年生の時から知っている。「男性を性的に興奮させる身体」だということ。つまり、この身体は「男性向け」だと言われ続ける人生を今まで生きてきた。

あれは平日の夕方前の繁華街。中学2年生だった私は臨海学校に着ていく服を、急遽一人で買いに出かけることになった。
すると突如、知らない黒ずくめの男が目の前の道を塞いだ。
「お姉さん、ちょっとお小遣い稼ぎしない?」
この言葉の意味は、13歳の幼い頭でも理解ができた。私のつま先から頭までを舐めるように見回す目。
そして「今日は買い物で来たのかな?いい身体しているから、ちょっと時間くれれば、好きなものいっぱい買えるよ」と、私の胸を見下しながらニヤリ顔。とっさに近くの雑貨屋に飛び込んだ。
そのまま1時間程出られなかった。冷や汗が止まらなかった。本当に怖かった。
化粧っ気がない顔を見れば、どんな人でも未成年なのは分かるはずだ。馴染みの街が急に怖く思えた瞬間だった。

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あの出来事以来、私のアイデンティティ最上位は「おっぱい」になった。人に言われるうちに自分でも、私は自分のことを「胸の大きい女」と必要以上に思うようになった。
時を悪くして、胸の大きさがタイトルのドラマが放送され、当時中学生だった私は尚更に自分の身体を意識することになった。

そんな学生時代を経験すると、怖いもので、いつしか自分の身体なのに、まるで自分のものではないような感覚が生まれてくる。だからこそ、私は胸元を露出する服装を好んで着るようになった。
一見矛盾しているように感じるかもしれない。実際に一部の女子からは冷ややかな目線を感じたこともある。でも、どうしたって性的に見られるのなら、「私の意志で」見せつけたいという気持ちがあったのだ。
街行く男性が見る(大方バレてないと思っているのだろうが)私のこの胸は、私の選択で見せていると自分に言い聞かせることで、これは自分の身体で私のものなんだと信じこませた。苦し紛れの強がりではあったが、私を見失わないためには必要だった。

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時は流れ20代後半。薄着の季節になると、明からさまな視線に辟易してくるのは変わらない。でも、相変わらず自分のカップに合わない下着を身につける気はないし、暑ければキャミソールで街を歩くこともある。
下っ腹の出ているサラリーマンには誰も何も言わないのに、どうして胸の大きい女性には「女を出し過ぎするな」なんて言えるのだろう。体育祭の時にどれだけ胸を家に置いていけたらと願ったか。同じように満員電車に乗る妊婦も「通勤時だけ子宮を家に置いてきたい」と願う。
ねえ、何かおかしくない?どうして女性はこんなに身体と心が乖離することがあるのか……誰も疑問に思わないの?中絶が認められないのも、子宮を女性の身体の一部だと認識していないからじゃないのかな。下っ腹が出てきたらダイエットをする選択肢があるのと一緒で、女性の身体の変化にもチョイスがあって良いのでは。
そのチョイスを与えない理由が今日も世界中の女の子の首を絞めている。

まだまだこの世界では女性が100%の自信を持って生きてはいけない。私も、好きな男性のタイプを口では「スマートな人」なんて明るく言ってはいるものの、心では「おっぱいをじろじろ見ない人」と涙声でつぶやいている。
付き合っていくしかない身体。それなら思いっきり愛したい。そして「愛していいんだよ」って性別、人種、全ての枠を超えて言い合いたい。
だから私は今日も自分の好きな格好をして、大学院で社会学と教育学の授業に励んでいる。卒業したら学校現場で知識を糧に、子どもたちと未来を考えたい。
そして彼らに問いかけたい、「あなたたちは自分の身体とどう付き合っていく?」って。