生理は10代半ばから毎月続いているのに、その向き合い方にはずっと、無自覚だった。

1ヶ月のうちの“その日”が来ること、その周期で自分の気分が意思に反して変わっていくこと、さらに場合によってはスケジュールを変更することに、やるせない気持ちだった。
私にとって生理は、自分を愛するどころか、自分に愛されない時間だったのだ。

そんな概念が、実感をもって変わった体験があったので、ここからは、私の個人的な体験および個人的な気づきを書いてみたいと思う(※生理の重さや痛みは人それぞれで、その対処法も千差万別。あくまで私の場合です)。

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ちょうど昨日、生まれて何百回目かの生理がきた。
そろそろと思ってはいたけど、せっかくの日曜日に当たってしまったのはブルーだった。
「もったいない」
天井を見上げて横になりながら、ため息をついた。
予定がある日ではないけど、だるい気分で、何もできない。
いつも頭に向かっている意識は、強制的にも子宮に向かう。

そうしていると、ヨガの練習のときに言われたある一言を、ふと思い出した。
苦手な柔軟の練習をしていた時のこと。
「痛みを拒否せず、受け入れて」
「いや痛いに決まってるじゃん」という心の声をよそに、痛みを「あっていいもの」として受け入れてみた。すると、どこからか力が抜けて、少し深くポーズに入ることができた。

日曜日の朝、重たく冷えた身体をベッドの上に置きながら、同じことをやってみたいと思った。
「ああ、痛いよね」
「骨盤が開いて、居心地が悪い」
「足首が寒い」
状況をコントロールしたい気持ちは一旦置いて、ゆっくりと、その時感じている感覚に意識を向ける。
すると、骨盤は重たく沈んでいき、痛みは認めてもらったことに安心したかのように、穏やかなものに変わっていく。
段々と気持ちも落ち着いて、自然と静かになっていく。
「やっと、ゆっくり休めるな」
「この時間がほしかった」
不意に、そう思っていたことに気づいた。

状況は何も変わったわけではないけれど、月のリズムに完全に委ねることの心地よさを味わう。

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思えば、目まぐるしい毎日の中で、私の感覚は、外へ外へと向いていく。
通知は止まらず大小様々な情報をポップアップして、スケジュールは何かの締め切りのために、いつも人を追い立てている。

その一方で、身体というものはとても繊細なもので、時期や環境によって、生理周期が安定したり、しなかったり。生理痛が重いとき、そうでないときがあったり。
私たちの無意識の領域で、いのちを繋ぐことができるように、いつも調整しながらメッセージをくれている。

本当に必要なのは、何?
どれくらい私たちはこの問いに自覚的になれているのだろう。

そして、その答えを知っているのは、私の脳みそではなくて、身体かもしれない。