「タトゥーを入れずに死ぬなんて、もったい無い」
辛いことが重なり死んでしまいたいと思った夜に、ふと沸き起こった人生の後悔だった。
重い身体を起こして、すぐにタトゥースタジオを探して予約を入れた。
何とか取れた予約日は、“クリスマス・イブ”だった。

◎          ◎

当日が来た。
まぶしいネオンと憂鬱なクリスマスソングを聞き流しながら、一人でタトゥースタジオに入る。
心臓の高鳴りが聞こえる。
私の心臓はドキドキと、確かに、鼓動が高鳴っていた。
鼓動の音を聞くのはいつぶりだろう……?
パートナーとの別れ際だったかな..……?
なんて思い返す。

スタジオの中でタトゥーだらけの人たちに囲まれて、20歳の大学生がポツンと一人。
ついに私の番が来た。
指名していたタトゥーアーティストの方にタトゥーを掘ってもらいながら、壁に貼ってある無数のデザインを眺めた。
手書きのラフなさまざまな絵を見ながら、「何を思って描いたのかな?」なんて思いながら、ぼんやりと過ごした。
痛みを感じることは一切無かった。
タトゥーを身体に掘る痛みは、生きることの苦しさ、痛み、辛さと比べると何のことでもなかった。

◎          ◎

あっという間に施術は終わって、初めて“スミ”の入った自分の身体を見る。
“20”
タイプライターで打ったようなフォントデザインを選んだ。
2000年に生まれ、2020年に20歳を迎えた私が、「ここにいるよ」という私にとって特別な証としての“スミ”だった。
何かへの反発心から興味を持ったタトゥーだったけれど、なんだか心が満ち足りたような、大きな満足感でつつまれた。
タトゥーを入れてから次第に心は晴れていき、暗かった狭い部屋から、明るい方向へと少しずつ歩み出せるようになっていった。

そしてある日、先輩に薦められ、鷲田清一さんの『ひとはなぜ服を着るのか』という本を読んだ。
タトゥーは「身体は親から授かったものであり、親との自然の絆であるという、そういう結びつきからじぶんの身体を解除して、身体をじぶんのものとして生きなおす一つのきっかけとして身体加工」であるという表現があり、深い納得感につつまれた。
私はきっと、自分の身体が「誰かのモノ」として扱われることがどうしても許せなかったんだ。自身の身体が他者に所有されることへの反発心から、私はタトゥーを入れたのだろう。

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特別な証としての“スミ”は、私の身体を明確に自分のものだと深く刻み込む行為だった。
これまで自分の身体と向き合うたびに、沸き起こるさまざまな感情たちが思い返された。
余分なお肉は無い?
不快に思われるようなムダ毛は無い?
透き通った美白肌を保てている?
こんな「他者」を主語にした感情たちと現実の自分の身体の差異が、私の首を絞め続けていたのかもしれない。

心臓の音や、身体の内部の循環や身体の重み、そして私の存在の証としての“スミ”。
タトゥーを入れてから、私の身体は私のものだと胸を張れるようになった。
「絶対後悔するから辞めなよ」
なんて言われるタトゥーだけれど、自分の身体が他者基準に陥りがちな現代においては、
「タトゥー入れないなんて後悔するよ」
とも言えるのかもしれないな、なんて思う。