誰かの言葉に疎外感を覚えた経験はあるだろうか?
わたしの場合は「普通」という言葉だった。多くの人が支持する誰かが決めたその基準は、小中高一貫校という狭いコミュニティに生きていたわたしにとって絶対的なものだった。

思えば幼少期から他の子より身体が大きかった。コロコロ丸みを帯びた女の子はティーンエイジャーになってもなおそれを維持した。笑うと震える2つ目の顎も、大根のような腕も、俯くと誇らしげにあるお腹も、たくましいふくらはぎも「普通」からはあまりにも遠い気がしてならなかった。
でもそれと対をなす「ありのままの自分を受け入れましょう」って言葉はなんだか胡散臭くて好かなかった。努力もせずそこに甘んじていることを正当化する言葉に聞こえたからだ。他人の評価が全ての孤独なわたしは「理想の自分はわたしが掴む」。そう思うようになっていった。

◎          ◎

それは過度なダイエットに手を出すことだった。
みるみるうちに凹凸はなだらかになっていったけど、代わりに髪はパサつき爪はボロボロになった。人の目が怖いという素直な自分の気持ちを伝える代わりにジョークを飛ばしまくり、周囲の人と笑いあった。その時間は紛れもなく楽しかった思春期の思い出の一つとして刻まれているけど、それでも「普通」に交じっているとは到底思えなかった。
こうしてみんなに揃えることがわたしの正義になった。成人後はジムにも通ったし、痩身エステにも行ってみた。

でもふと思った。思い通りにいかなくても粘って、毎日あらゆる難題と闘って得たお金で苦しくても痛くても耐えなきゃいけない時間を買った先にいるわたしが、本当の理想なのかって。
果たして「普通」になったわたしをわたしは許せる?その答えはNoだった。
だったらその時間とお金を使って見たことない景色を見に行ったり、朝まであーでもないこーでもないって言いながら心許せる友人と過ごしたい。家族に美味しいものをご馳走したいし、大切な人へ「いつもありがとう」を形で伝えたい。

そう思いつつもなお、みんなと一緒に「右向け右」をしたいわたしは矛盾した気持ちを抱えて途方に暮れたのだった。
しかしその数年後、わたしのためだと思っていた「普通」になることは本当の意味でわたしのためにはならないのだと確信することとなる。

◎          ◎

転機は突然訪れた!未だ答えが出ず不満だらけの身体を持つわたしを、初対面で素晴らしいと言ってくれる人が現れたのだ。

なぜそんなに手放しで誉めてくれるんだろう。純粋に理由が知りたくなった。だから怖くてもとことん自分を見つめ直すことにしたのだ。
その不満は本当にウィークポイント?

すると美の基準を他人に委ねるのではなく、わたしが心地よいと思う基準をわたしのためだけに作ればいいんじゃないってことに気づいた。
たった1人しか支持しない「オリジナルの普通」で生きることを自分自身が許すことさえできれば、後はそこに向かっていけばいいだけである。他人の評価を気にする必要はないし、誰かを見て「わたしは大丈夫」って安心するブーメランも投げなくていい。
誰かにひどく言われれば心は痛むけど、誰かの悪口を言った後の虚無感はそれ以上に自分を傷つけることに気づいてしまった。
そんな自傷行為はもうやめてしまおう、だってあなたの身体はあなただけのものなんだから。
そんな考えがストンと腑に落ちると、言いようのないワクワクした気持ちに包まれた。

◎          ◎

自分の許し方は人それぞれだろうけど、わたしの方法は「自分を受け入れる」という嫌いだった言葉から始まった。結局こんな自分をまるっとするっと愛すことにしたのだ。

けれど遠回りだったとは思わない。だってその道中めちゃくちゃ胸高鳴る企みを立てたからだ。
それは「自分を愛すのと同じように他人を思えるようになること」だ。
慈しむように、時には厳しくも愛せたならいい。すれ違うだけの関係の人すらもそう思えるようになるには途方もない時間がかかるかもしれないし、気づいたらあっという間かもしれない。しかし、その企みを叶えるには少なくともわたしは自分の重力で下がりめのおしりも、太めの脚も、丸めの手も愛すことからしか始まらないんじゃないかって思っている。

誰しもがしがらみに縛られずに心地良く、自分の不足した、あるいはありあまる身体を愛してやまない日を迎えられるよう、わたしは祈るばかりなのだ。