私が人生で一番苦しかった時、手を差し伸べてくれたのは、どこの誰かも分からない、SNSでコメントを下さった女性でした。
私の人生の全てだと思っていた、心の底から愛していた元夫との関係が破綻して絶望していた時、自分の心の整理のために書いたエッセイに、コメントをしてくれた方でした。
そのコメントが届いた時、ちょうど私は元夫と激しい喧嘩をしていて、精神的にも体力的にも限界を感じていました。でも、そのコメントを見て、元夫の声も、感じていた疲労も、全部吹き飛んで、何の音も聞こえなくなるくらい集中して読んだのを覚えています。

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内容的には、「きちんと違和感を旦那さんにぶつけて偉い、よく頑張った、すごいね、応援しているよ」ということ。
誰かに褒められたり、ましてや知らない人にこんなに優しいメッセージをいただけるなんて、何か危ない勧誘なのかと疑わなかったといえば嘘になります。
でも同時に、こんなにも「ありがたい」と思ったことはありませんでした。
突然体に血が通い、体温を取り戻したような気がしました。
もう死んでしまいたいと思うような毎日の中で、「生きたい」と強く強く思わされました。
弱っていたからこそ、より一層ありがたく感じたのかもしれません。
もしかしたら、もし他に悪意が隠された何かの誘いにも乗ってしまうような精神状態だったかもしれません、
それは分かりませんが、その時の私には、生きる希望をくれた言葉だったのです。

ネットで出会った人のことを簡単に信じるなんて、と家族には言われました。
人の嘘や悪意は見抜けない時もたくさんあります。
見抜く必要はないし、大切なことは誰かが私に嘘をついているという事実ではなく、私がその人を信じているかどうかです。
嘘だったとしても、私がそれを信じてプラスと感じるのであれば信じればいいし、マイナスと思うのなら手放せばいいだけ。
あの時、この人の言葉をありがたくいただこう、と判断した自分に感謝してます(結局、その女性とは今も毎週語り合うくらいの友達として仲良くしていただいています)。

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あの言葉が私にとって今でもずっと宝物なのは、言葉に愛が詰まっていたからだと思います。
誰かが私を肯定してくれたこと。
見返りもなしによく頑張ったね、と褒めてくれたこと。
誰かの評価なんてなくても、自分で自分を肯定できるから平気と思っていた私でさえ、誰かに愛を持って歩み寄ってもらえることのありがたさや、そこから漲る喜びやパワーの凄まじさを感じました。
これが、支え合って生きてく、ということの意味なのかもしれないと思いました。
対面だろうがオンラインだろうが関係なく、愛をもって、心を込めて自分が思ったことを見返りも求めず、ただ誰かが伝えてくれることの幸せ。
だったら、私もそういう風に、自分の素直に感じたプラスの感情を相手に伝えることの出来る軽やかさと愛を持った大人になりたいと思うのです。

「すごいね」
「尊敬します」
「感銘を受けました」
「感動しました」
思ってても言わないでいることの方が簡単だし、言ったらおかしな人だと思われるかもしれないし、無視されるかもしれないけど、それは相手の自由であって、あなたは素晴らしいと、誰かにただ伝えられる自分でいたい。
人との関係は希薄になりがちなこのSNS時代の、支え合いのあり方って、こういうことなのかもしれないとも思うのです。