中1の春、敏腕顧問の「この子は、絶対にラッパ」の一声で、私はトランペットとの出会いを果たした。
やればやるほど伸びる算数とは違って、銀色の合金の塊・ラッパで表現とやらをするのは非常に難しい。
それでもかなり、本当にかなり、一生懸命やっていた。
中3の秋に定期演奏会で「愛燦燦」のソロを吹いた時、とうとう顧問は「うまい」と言ってくれた。
自分の血を通わせた銀色の塊は私にめきめきと自信を与え、それを吹いている時だけは自分は無敵だと錯覚させた。

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高1の春、受験を制した私は進学先の高校でもやっぱり吹奏楽を選んだ。
これから相棒となる彼女は初心者だと言う。
バンドの生命線だとか、金管の花形だとか言われるトランペットを本当に自ら選んだのか?
失礼にもそう思えないほど、彼女は超・ポーカーフェイスで静かだった。
先輩を交えた輪の中で、“自己紹介バトン”なるものをすることになった。
中学の部活は?犬派か猫派か?好きな食べ物は?好きな色は?
単調で当たり障りのない言葉の輪が回されていく。
彼女が輪を回す番になって、ボソボソと単調な自己紹介が始まった。
最後に彼女が締めた。
「好きな色は虹色です」
その日、初めましての輪の中で、仏頂面の彼女の確固たる信念と鮮烈な強さを見た。

虹色の相棒は、それはもう、もの凄く努力家だった。
フェイスタオルをターバンみたいに頭に巻いて炎天下で永遠にロングトーンをし、メトロノームのネジを巻き直すとき以外は本当にずっと吹いているのだ。
天性の武器を得たのだと勘違いしていた私は、彼女の努力を見て正気を取り戻した。
彼女があまりにも一生懸命だから、自分がどんなに努力しても後ろめたい気持ちが拭い切れないほどだったけれど、彼女もまた、私の姿が自分を鼓舞してくれるのだと言ってくれた。
中学のような、オーディションや勝ち負けの世界はそこにはない。
それでも、2人で純粋な気持ちで上達を目指す日々は鮮やかで濃かった。
彼女が副旋律を練習するのに合わせて、時々被せて主旋律を吹いたりして、グランドに響くハーモニーを聴くのが好きだった。
基本的にはやっぱりポーカーフェイスな彼女だったけれど、日を追うごとにおどけた表情やオーバーすぎるリアクションを見せるようになり、お腹を抱えて笑い合った。
虹色の青春だった。

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高2の春、引退を目前にした定期演奏会で、私はメイン曲のソロを担当することになった。
通しで10分強ある大楽曲の終盤に、鳴らしにくい高音域のソロ。
高音域を鳴らせるか・鳴らせないのかというのは、金管楽器を担当する学生奏者の共通の悩みだと思う。
2階から目薬を、とは言わないまでも、命中させるという表現はあながち間違いではない。
熱を入れて練習を重ねる日々が続いていた。
「ちゃんと安定してきてるし、大丈夫」
彼女の大丈夫はどんな大丈夫よりも丈夫で、いつも私の心を掴んでを安心させた。

曲の最終章に差し掛かり、テンポが上がってくる。
途中の旋律を吹きながらも、頭は一発のソロのことでいっぱいだった。
何十回と場数を踏んでいても、会場にいる全員の耳が自分の音に伸びてくるあの時間の緊張は避けられるものではない。
自分の中の“全・大丈夫”をかき集めて、目の前にトランペットを構える。
指揮者の目線と指揮棒が自分に向く。
素早く・大きく息を吸って、吹いた。

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幕が下りた。
安堵に溢れながらも慌ただしい終演後の雰囲気の中、猛スピードで片付けが進み、楽屋の畳を埋め尽くしていた荷物が運び出されていく。
大きな峠を越えた興奮が、舞台で感じた1つ1つのことを「無事に終わってよかった」という短絡的な感情でまとめてしまいそうになる中、気持ちの底にはしこりが残っていた。

狙った1音は外れた。
反射的に持ち直して、ギリギリ最後に高音を乗せたものの、外した瞬間、上半身にグッと上った血が急激に冷めていくのを感じた。
私が音を外したことで、冷ややかな目で見てくるような仲間は1人もいない。
むしろ、大拍手の中で幕が降り、全員が今日の本番は大成功だと信じてやまない中で、私が心に残したしこりに誰かが気づく由もない。
気づいていたとしても、大きな大きな本番の、小さなミスに過ぎなかった。

部員全員が終演の熱に飲まれる中で、彼女が舞台袖から控室に帰ってきた。
嬉々とする様子も安堵に溶ける様子もなく、全くいつも通りに私の横でせかせかと片付けを始めた。
お疲れ、と声をかける。
あそこめちゃくちゃ緊張した、あの曲の時調子良かったなどと言い合ったりして、定期演奏会開催に当たってのお互いの役職を労い合った。
立ち直れないほどショックを受けていたわけではなかったけれど、話しながらも、残ったしこりがじわじわと毒を出すのを感じていた。
誰も気にかけない小さなミスでも、彼女を前にするととんでもなく後ろめたくて恥ずかしい。

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「あそこ、外しちゃったな〜」
おもむろに言ってみた。
これまで日々、私に“大丈夫”を与え続けてくれていた彼女の、小さな救いが欲しかった。

「外したってことは、当てようとしたってことやん。それだけで十分」
荷物をまとめて颯爽と立ち去る彼女の背中の後ろで、グッと顔が熱くなった。

虹色の青春から、5年余り経とうとしている。
トランペットで培った努力の姿勢は私の中で化け物になり、いまだに0か120かの努力しかできない。
聞こえはいいかもしれないが、実質ブレーキの故障だ。
次に激突する“何か”によって、いつかバラバラに大破してしまうのではないかという恐怖。
120の力でもがきながら、助けて欲しいと思う自分がいる。
「結果と過程とどっちが大事かとか、過程って言えなくなってくるもんよ。結果ありきの過程やから」
誰かに言われたこともある。
結果が出なければ、過程のことを全部忘れて大破した気持ちになってしまうこともある。
それでも私は、彼女の言葉を安い綺麗事だとは、ずっとずっと思わない。

外したってことは、当てようとしたってこと。

みんなが、毎日120でかっ飛ばす私を見ている。
エンジンをかけ、私が120に到達するまでの過程を見てくれていた彼女。
腐っても大破しても、当てよう、当てようと、毎日背中を押され、踏み出している。