中学生の頃、体育のプールの授業が苦手だった。

小学生の頃は、水遊びやどれだけ深くプールに潜れるか、水中の石拾いなど遊び感覚で楽しかった思い出がある。しかし、小学校高学年、生理が始まったときから、プールの授業が億劫になっていった。
体格差も個人差が出てくる年頃で、女子だけとは言え、大勢の中で着替えをすることも苦手だと感じるようになっていった。足の太さにコンプレックスを持っている私にとって、ハイレグのあのスクール水着を着ることすらも抵抗を感じるようになったのだ。

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中学生になっても水泳の授業はある。プール近くの更衣室で着替えて授業前にプールサイドに集合。生理のときは教員に申告して休みをもらうのだが、体育の担当教員が男性だったことと、年齢的に生理を出来れば隠していたいという心理から、申告するときは意を決して伝えていた。
プールに入りたくないからと、2週ほど生理を使って授業を見学していた同級生もいたが、数回そういう生徒が続くと教員も疑いだした。
生理がどのくらい続くのか。その人にとってどのようなものと捉えているのか。個人差が大きいものなのに、一般的なものとして捉えて意図的に授業を休んでいるのではないかと疑われていることに胸が痛くなった。
女性教員ならばもっと詳しい話になったのかもしれない。男性教員だからこの程度の疑いで済んだのかもしれないと思うこともあったが、思春期の中学生女子からすれば、できるだけこのことに関して話を大きくしないでほしいと思うのは自然なことだ。
しかも、異性に話すことに対する抵抗が大きい時期でもある。中学生を相手にしていて、女子の保健体育を教えているのであれば、このような思考になる人がいることも考えられたのではないかと思う。

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この体験をしたことで、ますますプールの授業は気がひけるようになった。生理になりませんように、次の授業までには治まっていますように、と願うことも少なくなかった。

子供の頃の習い事として水泳を習う人はいる。周りでも、スイミングスクールに通っている友達は何人かいた。
しかし、学校の授業として必修科目にするくらい、泳ぎを習得する必要はあるのだろうか。夏に海で泳いでいるとき、クロールや平泳ぎを学校で習ったまま実践する人ばかりなのだろうか。中学生にもなればこのような考えが頭を巡った。
思い返せば、学校で水泳がなぜ必要なのか、教えてもらった記憶がない。泳げない人もいるのだから、さらに必要性が問われていくばかりに感じる。
着替えも、集団で同じような最低限隠したスクール水着を着用する必要はあったのだろうか。いろんなことが気になる多感な時期に、“学校で着替える”という行為すら何かと気になってしまう。
着替えだけではない。塩素に浸かったことで髪が傷んでしまったり、伸ばしている髪を結ぶ必要があったり、プールの授業が終わったあとも女子は大変なのだ。

高校を選ぶときも、水泳の授業がないことは学校を選ぶ条件の中に入っていた。奇跡的に自分の行きたい高校が水泳を実施しておらず、心のなかでガッツポーズをした。もともとプールはあったのだが、老朽化を理由に在学中に取り壊しが決定し、更地となった。

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今では、スクール水着の形が私の頃と変わってきているらしい。親の世代からあったハイレグなスクール水着から、セパレートタイプやアスリートのような丈のあるものもあるらしい。これらが私の世代にもあったならば、水泳の授業に対する捉え方も変わっていただろうか。

思春期はずらせない。そのため、水泳と恥ずかしさとの葛藤はこれからも、どの世代でも感じられていくことだろう。教育カリキュラムとして子どもたちが授業を受けていくのなら、少しでも前向きに捉えられる形や配慮をして欲しいな、と思う。
先生の時代ではなく、今の子どもたちがどう思っているか、に目を向けて行けば、スポーツのもやもやは少しずつ解消されていくのではないだろうか。