大規模なイベントや企業のスローガンで、「ジェンダー」や「多様性」という言葉を耳にするようになって久しい。
しかし、「日本はいつも上辺だけだ」と私は思う。
政治家の女性軽視発言やセクハラ、多様な性のあり方を認めない司法、身近な世間話など、未だに前時代に取り残されたような価値観が蔓延っているからだ。外面だけは時代の波に乗っているように見せておいて、その実、世間には驚くほど浸透していない。
原因は、我々が幼いころからあらゆる場面で、化石化したジェンダー観を刷り込まれていくからだと思う。
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例えば、私が小学生だったころ、男子は青、女子は赤の上履きだった。ステレオタイプの家族イメージはサザエさん一家で、波平が茶の間にドカンと座していることに何の疑問も抱いていなかった。サザエやフネだけが台所に忙しく出入りすることは、普通のことだと思っていた。
しかし、私は成長するにつれ、それがあるべき姿ではないと知っていく。女性も社会に出て働ける。ひとりの人間として認められる。自立した女性の姿は、私を強烈に憧れさせた。
男性と同じ学歴を持ち、大人になった私には自信とプライドがあった。そして、一昔前のジェンダー観は、時代の流れと共に消え去ってしまったのだと考えるようになっていた。
しかし、社会に出てその考えは崩壊する。たくさんの人と関わる中で、彼らが発する言葉の節々に「女だから」「男なのに」という価値観が見え隠れしていた。そういった言葉を耳にするたびに、私の心は強く反発した。
年齢が10も違えば価値観が異なるのは当たり前。それどころか、同世代の人間ですら、前時代的な価値観を当然のように語るのだから驚きだ。やれ結婚をしたら退職するのかとか、やれ女性は出しゃばらない方が良いだとか。男女どちらの口からも、性別で固定された話題が出てきてうんざりする。
極めつけは、「これを言ったらセクハラになるかもしれないけれど」という台詞を免罪符に、セクハラ発言をする人間までいたことだ。
断ってさえいれば、セクハラ発言が許されるわけではないし、そもそも「なるかもしれないけれど」なんて、セクハラの本質を理解していないからこそ出る発言だ。真剣にジェンダーについて考えたことがあれば、わざわざこんなことは言わないだろう。
そして、「セクハラだったら、ちゃんとセクハラですって言ってね」と会社の取締役に言われたときは、思わず顔が引きつった。この人は、本気で私が指摘できると思っているのだろうかと考えた。それは、自分がパワーバランスの下に置かれたことがないからこそできる発言だ。全てのもやもやを飲み込んで、私は耐えることしか出来なかった。そのことが悔しい。
私の同世代ですら価値観は進歩していないのだから、さらに上の世代では、こんなことは日常茶飯事なのだ。だからと言って、それを受け入れることはできないから、こうして言葉にしているのだが。
私より上の世代の人間でも、疑問を持つことはあっただろう。しかし、周りの価値観に迎合し、取り込まれ、最後にはそれを当たり前として受け入れてしまったから、未だに性別で縛られた価値観が残っているのだ。私はそれが悲しいことだと思うし、変えていかなければならないことだとも思っている。
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これからを生きる子供たちには、価値観の押し付けなどない自由で希望に溢れた未来を生きてほしい。自分の性別に関わらず、好きなものは好きと言ってほしいし、理不尽に傷つけられることがないようにしてほしい。
もちろん、子供だけでなく我々大人も、性別に関わらない自由な価値観を共有したい。しかし、我々大人が気づいて行動を起こさなければ、負の価値観は脈々と受け継がれていってしまうのだ。
女の子が恐竜好きだって構わない。男の子がかわいいキャラクター好きでも何の問題もない。青を身に付けても、赤を身に付けても良い。私の好きなものを決めるのは、性別ではなく私の心だ。未来を決めるのも私の心。それは、誰にも侵すことのできない聖域なのだ。
男女という二元化されたカテゴリに人を当てはめる価値観など、旧時代の遺物として博物館に陳列してやる。
それが実現するまで、私はこうして書き続けることをここに宣言する。