14歳、気づくと少しずつ学校を休みがちになっていた。
激しい腹痛や嘔吐を繰り返したり、夜は眠れない。あまりにも腹痛がひどくて行った夜間病院では、ただの便秘ですね、と整腸剤を出されて終わった。
不眠に関しては、担任が紹介してくれた精神科へ行き、貰った眠剤を飲んだがまったく効かず、終いには「あなたは病気じゃない、朝起きて学校へ行きなさい」と言い放った医師が組んだ脚の形をいまでも覚えている。

“私は、病気じゃない”
夜眠れず、そのまま朝を迎え、行ける日は学校へ通ったが、うまく字が書けず、給食を食べるのが恐ろしく、人とすれ違えば自分が笑われているような気がし、中学2年の冬、登校をやめた。

このまま私は、中学校へ通えず、高校受験もできず、将来どうなるのだろう。
砂を噛むような日々。

飼っていた犬の散歩も、近所の人が声をかけてくるので行けなくなった。
家族でも母以外とは会話すら困難。
換気の無数の穴から監視されているような気がして、風呂にも入れなかった。
私にとって、異界となった部屋の外。

◎          ◎

ある日、インターネットを繋げて欲しいと母にお願いした。何を思ったのか母は、案外アッサリと回線の契約をしてくれた。
お目当てのゲーム攻略サイトに、チャットが設置されていた。
現実で他人と話すことはおろか、すれ違うことさえできない私がそこへ入室してみると、部屋の中だけで完結し、窒息寸前の私の世界が、すこしだけ広がった。
チャットの世界には“視線”がなかった。

そこには色んな人がいた。
歳が近い女の子。アラフォーの男性。沖縄に住む人。北海道に住む人。
視線のない世界へ没入し、常連たちと打ち解けてきた頃、自分の状態を話してみた。

「引きこもりじゃん」
衝撃だった。
私は“病気ではない”、そして“引きこもりではない”と思い込んでいたのだ。

◎          ◎

通学をやめて、1年が経っていた。
ネットで評判のいい病院を探し、そこへ連れて行ってほしいと母に頼んだ。

待合に貼られたポスターに「他人に笑われている気がする。人前で食事ができない。電話が怖い。字を見られるのが怖い。といった症状がありませんか」と書かれていた。

それはまさしく、私のことだった。
その日、症状を説明するためにあらかじめ用意してきたメモは、字が汚い、恥ずかしい、と何度も書き直し、最終的に母に代筆してもらったものだった。

先生は穏やかで、精神科の女医のように脚を組むこともなければ、あなたは病気じゃない、と否定することもなく、大丈夫、治るよと言った。

中学3年生。引きこもりになってから1年経ち、社交不安障害という診断がなされた。
やっと通うべき病院が見つかったのだ。
長い時は3時間、待合の椅子で座って待った。

通院とカウンセリング、服薬とチャットが私の毎日だった。
年齢も住んでいる場所も、これまでどう生きてきたかもまとまりのない者たちが集まって話をする。
それが私とこの世を繋いでいる、唯一のコミュニティであり、実際ここでの出会いがなければ、私はまだ社会復帰できていなかったかもしれない。

当時、腹の調子が悪くてたまたまかかった内科では「虫以下の生活をしている!」と罵倒された。
けれど先生、その言葉では、私のお腹の調子は良くならなかった。親身に話を聞いてくれたのは、目の前の医師よりも画面の向こうにいる人たちだった。

◎          ◎

通院から1年経つと、人前に出られるようになってきた。
そして突然、ひらめいた。チャットのみんなに会いに行くのはどうだろう。
みんなに会いたかった。

人とすれ違うことすら恐怖で、部屋から出ることのできなかった引きこもりが、虫以下の私が、部屋どころか県外へ、自分ひとりで、誰かに会うために出ようとしている。

ただ、少しだけ自信がなかった。
すると母が言った。
「行っておいでよ」
お金は出してあげられないけれど、と。

当時の私は母としか話すことができなかったので、なにも違和感を感じずにいたが、いま振り返ると正直、親としてもっと早い段階でいろいろとすべきことがあったと思う。
お金は出さないけど行っておいでよ、という言葉もかなり無責任に感じる。

しかしその「行っておいでよ」に、とん、と背中を押された。
言葉なんて実態をもたないものに、あの時たしかに押されたのだ。

それからは早かった。
あれだけ恐怖に感じていた電話を自ら掛け、バイトの面接を受けた。

そして自分で計画し、自分が稼いだお金で新幹線の切符を買い、お世話になった人たちに会いに行った。
それは心に残る旅立ちと出会いとなり、傷ついた自尊心をなによりも癒してくれた。

◎          ◎

言葉。それは時に刃となり、己や相手を傷つける。守ってくれる盾になることもあるだろう。抽象的でぼやりとしていることもあれば、実態のようにはっきりと輪郭を成すこともある。
けれど、この言葉は相手を傷つけるか、守れるかだなんてことを計算していては、本当の気持ちというのは誰にも伝わらない。
あの頃、虫以下だったのも事実だろう。しかしそれが必要な日々だったというのも、また事実である。

「行っておいでよ」に押された翌春、夜間高校へ入学することを自分の意思で決めた。
あの時、私に放たれた言葉は、母の手の形を成して、いまでも私の背中に寄り添っている。